溺れるってことは、水に落ちたときに焦るからだよね。
オラなんか1人で近所の沼に釣りに行って何度滑り落ちた事か・・・
それでも沼に落ちて死ぬ馬鹿が多いものだから、3つもあった大きな沼(溜池)も十数年前に埋め立てられてしまった。手軽に釣りができる環境ももう無い。
無くなったことで落ちて死ぬ人は居なくなるだろうけど、落ちたら危ないってことを学ぶ機会も失われたということだ。そういう子供たちが似非アウトドアラーの余暇で郊外の自然に触れたりして、目を離した隙に落ちたり流されたり。
親の保護責任を放棄しているとしか思えないけどな。
そういう場所では親が子供に何をしたら危ないのか。
「深いところに行くなよ」 「流れの速い所に行くなよ」 「滑って転んだら何にでもいいから掴まれ」
「滑るから気をつけろよ」 「歩く時は足場を確認しながら歩けよ」 「遠くに行くなよ」
「お父さんの目の届く所に居ろよ」 「何かあったら直ぐに叫べよ」 「落ちても慌てず呼吸を確保しろよ」
そんな当たり前のこと・・・と言われそうだけど、言わなきゃ分からないでしょう。
言っておくのと言わないのとでは大違い。
言わないよりも言うことで何も言わないよりも事故が起こる可能性も低くなる。
心の準備を促すことは親にとっては義務だ。
子供は何が危険なのか分らないんだから。
分っていると思う親は多いかもしれないけど、分らないと言う前提で教えるべきだ。
オラの幼少期のように危険で自然に満ちた環境はもう無いんだし、楽しいピクニックが一生のトラウマになるかならないかは親の教育なんだと思うよね。
咄嗟の行動に対しての心の準備。事前に滑って落ちるかも知れないという覚悟。
いや、滑って落ちる可能性が高いと自覚していれば無理はしないし、落ちたときもすぐに掴まれるものがある場所を選んで水辺に近づくものだ。
高層マンションで子供が落ちて死ぬ事故も、子供が普段から高い場所で育ったことで、高所での恐怖心が殆ど無いそうだ。それだって、ベランダに足場を作らないとか、落ちたら痛いんだよとか普段から繰り返し繰り返し教えればよい。「落ちたら死ぬんだよ」の「死ぬ」って概念が分らない年齢でも「痛い」ということは分るだろう。
子供がわからない事なら言い換えればいい。分るように。解かりやすいように。
遊具で死亡する事故も、何をしたら危ないということを気づかない事にある。
いやむしろ最近の子供は、より危険な遊びを好む傾向にあるとのこと。
怖いこと危険なこととスリルの違いを理解できるかだろうなぁ。
子供が外で遊ぶ時は同級生よりも、下級生や上級生などと一緒に遊ぶのが普通だった。
今の子供らは実家の周りを見ても近い年齢の子供ら同士で遊んでいる傾向にある。
誰かが危ない事をしていたら、誰かが叱らなきゃならない。だれかが危ない事をしていたら誰かが止めなければならない。
それが上級生の責任でもあった時代。自然と下級生の危険な行為を止めるという責任感も覚えるし、自覚もする。子供には子供同士のルールや地位なんかもある。だけど、「うっかりさん」も居れば「しっかりさん」も居る。そんな色んな子が一緒に遊ぶ事で子供ら同士で遊ぶにしても、「○○さんの子供が一緒だから大丈夫だろう」ということにもなるし、いづれ自分の子供が下級生を引き連れて遊ぶ時も、危ない事をしていたら止める側に育つだろう。
でも、その「危ない事」を教えなければならないのは、親や周りの大人なのだ。
砂に埋めて頭だけ出して遊ぶなんて馬鹿な遊びをして圧死しているような時代の子供たちだ。
大人が子供に危険についてもっと教えることが必要だろうな。
「うるさい!」とか「分ってる!」と耳にタコと言われようとも、しつこく何度も言われることで子供はそれを危険なことだと理解できる。
いまでも言われるオラにしてみれば、そういう親の煩いまでの「危ないから・・・」というのは決して最悪の事態に遭遇していないオラからしてみれば親の愛情でもあり、危険に対する意識の違いと言えるのだろう。
自分の子供が可愛ければ、煩いくらい言うのが親の愛情ではないのかな?
だって、子供は経験した事じゃないと理解できないし、危ない事をして痛い目に会わなきゃ危ないと理解できないんだし。
そんな小さな痛い目や、小さな危険に遭遇する事で大事には至らないことに繋がるんじゃないのかな。
まぁ、自分の子供の命を護るのは何も行動だけではない。
遊びに行く時に「気をつけて遊ぶんだよ」くらい必ず言ってやるのも親の愛情じゃないかな。
言葉くらいかけてやるのは別に手間でも何でもないだろう。
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