判別脳力が無ければ見落とし選び採れず。
感性が無ければ目に留まらず価値が解らず。
知識が無ければ理解と説明に苦労し。
記憶力が無ければ希少性が判らない。
実際に七里長浜を闊歩して、無数の石ころからこれだと思う石をロックオン出来るのは、見えてる範囲の石の表情を一度に脳に転写して、脳内で当該の石を一斉スキャンできているのは脳の仕事。
実際のところ、老眼じゃなきゃもっとレアな石ころだって拾えるだろう。見えていないのに見えているのは、目から入った映像を脳が画像処理で補正して細部を補正し認識しているから。
錦石とは呼べずとも美麗な石はある。それこそ名前のない石もあるのかも。それだけ多くの多彩な石が海岸に敷き詰められている。出会うのは偶然か、巡り合わせか、拾うべくして拾ったか。目に留まるのは理由がある。
石の種類が見て判らなければ、どのような種類の石であるか。その石の価値も、品質も、希少性も判らない。
大量に出回っている見た目に個体差が無い数々のメジャーな宝石よりも、その透明でもなく輝いてもない石ころは偶然に偶然を重ねた唯一の価値があるのかも知れない。
ビーチコーミングの面白さは、出会いであり偶然で、いま、ここに居なかったら一生出会えなかったかも知れない地球の記憶の欠片を見つける為の宝探し。
海岸で拾えるのは石ころに限らない。流木にも奇妙な形の物もあるし、一般に出回らない胡桃の実も沢山ある。カラスには悪いが、割ってみると食べられる実もあり、大量に拾った胡桃を山の沢沿いに点々と埋めてきた事もある。もしもそこを訪れることがあったら、そこは沢沿いに様々な胡桃が成っているかも知れない。
未だ拾ったことはないが、ネットでは遠くの国から流れ着いた瓶。中に詰められた手紙と小物。それを拾った人と流した人が連絡を取ったエピソードもある。
これほど長い期間を石拾いに徹した事は無い。どうせすぐに飽きるだろうと思って復活させたり数十もの趣味の中の1つに過ぎない石拾い。古くは小学校低学年の頃の記憶も蘇るあの感動。
ろくな知識も無く、自力での足(移動手段)もなく、体力もパワーも無かった頃に比べ、今は裕福ではないにしろ、好きな事が自分の意志でできている事に感謝したい。
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