残念ながら美談とも思えない。
助けようとした人の家族(遺族)から見ればね。
取り残された高齢男性(80)を助けようと…踏切内に入り電車にはねられ重体だった男性(64)が死亡 高齢男性も同じく死亡
酷いことを言ってる自覚はある。でも、無駄死には美談ではない。
多分ね、
- 関係ない人からは美談に見える。それを悪く言うとヒトデナシ扱いとか余計なお世話。同調圧力なんぞクソ喰らえ。
- 当事者および当事者の遺族は申し訳け無い気持ちでいっぱい。不幸だ。
- そして救助しようとして巻き添えに成った人の遺族からすれば何故、どうしてという気持ちしか無いと思う。場合に依っては当事者や当事者の家族を恨むかも知れない。行動は称賛に値するかも知れないが、差し引きでマイナス2である。
オラなら迫りくる電車があと何秒で当事者の位置に到達するか。自分がそこへ駆けつけて引き戻す。或いは間に合うかどうかを一瞬で判断し、間に合わなければ助けない。単純な足し算引き算の問題である。ミイラ取りがミイラになるにはそれだけのメリットが無ければ成らない。そして、マイナス2になるならオラは最初から動かない。
では、判断基準である。
第一に、間に合うなら襟首掴んで踏切外に引きずり出す。優しく手を引いている場合ではない。今回に限ってはそんな余裕など無いはずだ。
助けようと飛び込むと言えば溺れた人を助けることにも似ている。踏切に取り残された人を助けるのも、水中に飛び込んで助けるのも当事者と救助者が生き残るのは五分五分だ。
踏切が降りてから十分な時間がある場合を除いてはだけどね。助ける方にもリスクに見合う動機が必要だ。
状況対処能力とは物理的な身体能力と思考・判断能力であり、有れば上等。無ければ不幸になる。努力で必ず手に入るものだけに持っていない人は当事者に成った時にどう思うだろうか。
そんなの考えている暇はないという人は居ると思う。
オラがいつも言っていること。それは、普段から想定していれば想定内となる。想定していなければその場で考える必要がある。そして迂闊な行動を取ることになる。判断を誤れば差し引きマイナス2だ。
自分が初めて遭遇する事態はその場で考えるので間に合わないけど、普段から条件を決めていれば咄嗟の時に二択を間違わない可能性が高まるということ。
では、仮に他の人が助けに飛び込んだら?
当事者が子共で親が助けに飛び込む場合もあるだろう。それをどうするか。両方助ければベスト。親を引き止めれば子供が轢かれた時に恨まれる。子供に対して轢かれない位置に移動するよう呼びかけて素直に聞けるかどうか。間に合わないと確定すれば何もしないも選択肢にある。
走ってくる電車の軌道を読んで、最小限の移動で回避する。線路と線路の間でも、隣の線路との間ではなく、軌道上に伏せていれば接触の危険はある。
退避が間に合わない場合は伏せれば電車本体に接触しない事も可能だが、踏切前後がカーブしていると通過する軌道を読みを誤る可能性がある。複線の踏切では判断を誤れば死亡率が上がる。
こんな時に自分ができること。しないことを決めておこう。
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