もう20年以上も前かね。2度ほどこの奥の山にタケノコ採りに行ったことがある。入山料を払って入る山で、昔から地元民には馴染の場所だ。
今年も既に遭難者は何人も出ており、迷うくせに何で山に入るのかな?とか思う。ドMか自殺願望でもあるのだろうかと首を傾げる。その迷わないという根拠のない自信はどこから来るのだろう。無論、過信で遭難する人も居れば、これまで大丈夫だったからこれからも大丈夫だろうという自分の衰えを自認しない人も。
こんな世の中だから年金だけでは食っていけないから、少しでも小銭を稼ごうという人も居れば、山菜を採ってきて近所に配って自慢したいという人も居るのだろう。でも、遭難したら誰かに迷惑を掛けるわけだし、それで命を落とす危険なんぞ山ほど考えられるのだが、全無視してまでも実行に移すほどのメリットはどこにあるのだろうか。
山菜採りの魅力はオラには解るし、オラも山菜採り歴は長い。年齢=ほぼ山菜採り歴なもんで。半世紀以上も経験があってまだ五十代だよ。幼少期から一人で藪を漕いでいるわけで、山での方向感覚は絶対だ。笹薮の中は視界ゼロでも何ら問題は無い。見えている世界が違うんぼだから。だから迷う人の感覚が理解できないし、見えている情報から方向なんぞ幾らでも特定できるわけで、いったい何を見て(何を見ないで)迷ったと言っているのか。
東京とかコンクリートジャングルで遭難する自身があるオラは、山で迷うという感覚がない。むしろ、オラは大都会に行くとてんでダメダメになるので人口密集地には絶対に行かない。逆を言えば普段から人工物に囲まれて育ち生活している人と、オラみたいに人混み大嫌いで野山を闊歩している方が幸せな人間。山の歩き方は体に染み付いている。依って大都会には近づかない。であれば逆のパターンも然り。無理してできないのに人に迷惑をかけてまでしなければいけない事なのかと。
山のルールも分からずに山奥に入る人の気持が全く理解できない。自分が老いて山で体力が尽きる可能性があるほど弱体化していることに自分自身が気付かないとしたら、自分の体の声が聞こえていないのだろうかと疑問に思う。
自分の体のことは自分自身が一番わかっていて当然であるが、そうではない人も実際は多いのだろう。自分の身体の状態ってのは自分自身の五感の範囲内でわかること。自分から排出される大小便から解ること。自分の体臭や食事の傾向の変化。水分摂取と排尿の頻度。自身が感じる自身の体重を支えられる骨格や筋力なんてものは日常的に気にすれば自認できて当然。
でも、実際は無自覚とか、無関心とか自信過剰で自分は健康だと思いこんでいて、それでも感じる違和感や痛み。体の重さの感じ方に以前より衰えや不調があるにも関わらず認めたくないとかいう無用なプライドがあるのかもね。
絶対に無理をしない。やるなら徐々に慣らす。感覚として掴めてからステップアップする。わからないことはネットで調べるとかベテランに聞くとか、かかりつけ医に聞くとか、検診センターで体組成を測ってもらって、自分の骨格筋量や脂肪の量、ビタミン・ミネラルで大凡の肉体年齢は解るし、自身の体の傾向というものが解る。
自身のこれまでの経験というものを一度自分自身で精査して見れば良い。そしてブランクがどれくらいあって、自分の習熟度もきちんと評価すればよい。格好いいというのは難なくそれを熟したうえで余裕のある行動をとれること。山菜採りに行って遭難するって事自体が死ぬほど恥ずかしいことだとオラは思う。ま、死んでる人も多いわけで。後悔しても遅い訳だが。自分を客観的に見れなくなると、こういう事故は起きるが、事故というよりも結果だけ見れば自殺行為でもある。
家族でそういった無茶をしていて何度言っても言うことを聞かないんだったら、遭難しても捜索願は出さないからね!くらい言ったらどうだ?。
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