欠陥なのか。病気なのか。障害なのかハッキリしないなぁ。
ともあれ、コミュニケーション障害の略ってことなのだが、これの反意語はなんだろうとか考えてみた。
ズバリ・・・正反対の症状を挙げるとすれば自己中ではないだろうか。
ということは自己中も脳の欠陥になるのかってことを検証せねばなるまい。
まぁ、考え方が消極的なのがコミュ障で、思ったことを何でもズバズバ自分中心に言っちゃうのが自己中とすれば自己中も脳の欠陥なのではないかとさえ思えてくる。
ただ、これらの症状には自覚症状が無いと思えるのだが、人から言われて気づくのが本物で、自分で分かっててやってるのが偽物ってことになるのかな。
単に先天性の場合と、親の育て方が悪かった(要するに適切な時期に適切な教育や接し方をしなかった)場合とにも寄る。なにせ、人間の考え方ってのは生まれた環境によって善悪や道徳。民族でいうところの性質や性格的なものが色濃く出る。海賊が盛んな某国だってそうだし、中東では神の名に於いてのテロなんかある。それに子供が銃を持っているなんて凄く違和感があるのに、どうもオラ達のようにそういう事とは無縁な国に居ると常識ってのは育った環境に依存されるということが良く分かるのだ。
お隣の韓国なんか、「何でも韓国起源説」が有名。言ってて恥ずかしくないのかと思いきや恥ずかしくないようで、先日の韓国人女性が日本に来て韓国人のブローカーに騙されて売春行為させられたってニュースなんか、日本が悪いってことになっているらしいぞ?。事件に日本人が出てこないのに笑っちゃうよね。
そういうことで、何もかも脳の欠陥だとか、で済ますのは良くない。それにそういった人は昔はそんなに多くは無かったでしょ?ってこと。つまりこれは現代病なんじゃないの?ってこと。或いは先進国に多いんじゃないかな?
コミュニケーション障害を単に脳の欠陥と定義してしまうにはちょっと早計ではなかろうか。
まぁ、「説を立てる」ってのは「言ったモン勝ち」的要素が多いので、逆に言えば、何か辻褄が合いそうなことを思いついたら、自分なりに検証してみて説を立ててみるってことでいいんじゃないのかな。
だって、個人研究も仕事で研究しているのも、結局はその違いだけで、仕事にしているから間違いないということは無いし、個人研究だから間違っているなんてことも、無いんだから。
<追記>
チョットコンビニまで今晩のオカズのヤキトリを買いに行ってる間に思いついた。
キーワード:
母国語の中の方言とその方言を喋る人。および共通語(標準語) が喋れない人。喋る努力をして喋れる人。喋れない人。方言にコンプレックスがあって無口になる。むしろ方言を気にしない人とで脳のせいと言えるのか。
つまり、コミュニケーション障害をどこまで適用するかということ。必要が無ければ別に共通語でのコミュニケーションは必要無いのだから、それを脳の欠陥として定義できるのか。年齢的なもの。個人の努力によるもの。そして必要とするかしないかの環境の違いということだ。
これを一般的に言うコミュニケーション障害に当ててみると、ヒキコモリが可能な環境に居るからコミュニケーションが必要なく、結果としてそうなってしまったとも言えるのではないか。
だから親が子供を過保護にし過ぎたり、親が子供が働かずに家に引きこもっている状態を何とかしない状態に長年置いたとする。そうなると、子供はコミュニケーションを必要としない環境で生活することになるので、自然とコミュニケーション障害を引き起こしてしまうということ。
だから、コミュニケーション障害は脳の欠陥などではなく、環境によって脳がそれに適用した状態であって欠陥ではないとも言える。
先ほどの方言だってそうだ。その地域で普通に生活している状況に於いて共通語が必要ないものであれば覚える必要の無いものであって、それに適用する必要もない。かといってそこだけで生活ができない人はそれなりにその地域の外で使われる言葉を習得しなければならず、多少に関わらずそれに適用する。
ヒキコモリも家に居続けることができない状況になればそれに適用するしかなく、それを拒否し続けたところで何の解決にもならないし、親が死ねば生活ができないから家で孤独死するしかなくなる。
単に、環境によって脳がそれを必要とするか否か。それに適用する環境への変化を与えるか否か。それに適用する必要があるか否か。それでその人が生きられるか否かの問題になる。
結果としてコミュニケーション障害とは環境が引き起こす現象であり、適応の有無は必要性によって左右され、適用の必要ない環境にあればそれは傷害でも何でもないただの事象ということになる。
以上。
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