2024年7月8日月曜日

ニュースで起きる事件や事故や事案というものは考える機会である

 ニュースをよく見よう。読もうというのは自分がその立場。当事者だったらどうするべきか考える機会を得るということで非常に有用な考える機会であるとオラは考えている。

いつか自分にも起きるかも知れない。自分の身に降りかかるかも知れない。自分が当事者になるかも知れない。自分の家族の身にも起きるかも知れない。

でも、逆に、所詮は他人事である。自分に限ってはあり得ない。まさか自分の家族に限って。その人は運が悪かっただけと考えるのは思考の放棄だと思う。こんなリアルな事案が報道されているのに、それを他人事で済ませるのは再発防止やリスク回避を放棄していると思う。

結果として類似案件は跡を絶たず、先程見たニュースサイトの一覧には水の事故が何個も並んでいて、いったい全体何がどうなったらこんなに類似案件が毎年発生しているんだと疑問に思う。やはりこれは他人事であると考えて、普段から自分や自分の家族には起こり得ないとか思っているからなのだろうと思う。

まずは根本から考えよう。

人間は水中では呼吸できない。人間は魚や海獣のように水中で移動できない。人間はいくら泳げてもいづれ溺れる生物である。人間は基本的に陸上生物である。

ここから導かれるリスク評価は、溺れる前提で行動しようということになる。次に溺れないようにするには何に気をつけるか。最後に、溺れそうになったらどうするか。これらをシミュレーションせずにリスクに対する行動を規定していない場合、人間は簡単に溺れるのだ。

人間は基本的に馬鹿じゃない。馬鹿なのは考えることをやめた人間のことを言うのであって、考える機会があれば自分の身を守るために何らかの防衛手段を講じる生き物だ。

でも何故、それをしないのか。なぜできないのか。

答えは簡単。面倒だから。楽な方に逃げる生き物だから。問題を先送りできるものはしてしまえと思っているから。

これを他人任せにできるのも人間ではある。自分ができないのならできる人に任せれば良い。それだけ自分は考えなくても良いし、努力をしなくて済む。あああ、楽ちんだ。

でも、四六時中、それを代わってやってくれる人が居るか。それを注意してくれる人は居るか。代わりに危険を排除してくれるかと言えば無理でしょ。その突然のリスクが対処できない人だけの場合、リスクを受け入れるしか無い。そこに待つのは怪我や死亡だ。

溺死の事故だけでも十分にデータはある。対処も回避もごく当たり前の範囲で、本人だけで回避は可能だ。それこぞ知識だけで回避できる事故である。


ここ最近騒がれている青森県内の動物騒ぎも十分に考える余裕のある事故ではある。

とりあえず普通の人は山での知識が欠如している。山の歩き方が間違っている。方向感覚が乏しい。周囲への警戒ができていない。手軽にリフレッシュできる場所だと勘違いしている。自分がクマに襲われる事はないと思い込んでいる。自分はまだ若いし体力は十分にあると軽く見ている。すぐに帰るから装備は軽装で非常食や携行品も不十分。自分はそこそこの経験もあり今まで事故や遭難の経験がないから大丈夫だ。とかね。

住宅地だから。市街地だから動物の脅威はないとか思っていても、動物が人間の住んでいる場所だから入ってはいけないとか理解できるとも思えないし、人間のルールを動物に押し付けても意味がないし、動物に人間の作った境界線が理解できるとも思えない。

何かを考える時に前提というものがある。それは誰にとっての前提であるかを考える余裕がないと、思い込みによってそれらを考える機会を失う。それが実は簡単でありそういった人間のルールが動物には通用しないということを前提にしていないと、事故というものは起きる。オラから見ればそういった事故は起こるべくして起こっているのであって、何故もクソも無い。

オマエは動物の味方か!とか言われそうだけど、オラは客観視しかしないので誰の味方でもないし、別に相手がカラスだろうとクマだろうと生物VS人間としか見てない。寧ろ考える事ができる人間のほうが上手であり、衝突を避けることもできるのは人間である。動物に対して別に敵対もしないし、襲ってくるなら受けて立つというスタンスしか無いので、オラ的には不干渉であり襲ってくるならぶっ殺すとしか考えてない。同時に、何らかのコミュニケーションを取ろうと思っている相手には寛容であり、多分、そういった意味で気配を上手く読んでる動物がオラには警戒心がゼロってのも事実だ。

普通のことはしないし、動物と何らかのチャンネルがあるし、知能が高い分だけ低い方の動物に譲歩するのは人間である自分がすることである。それで学ぶことも多いし、それには感謝もしているし、人間よりも価値が低いなんて思っても居ない。この空気を読めるのは人間よりも言葉の通じない寧ろ動物の方なんじゃないかと思ってるくらいだ。

ま、自称「変な人」な訳で、研究内容もライフワークなものばかり。モノゴトの真理に辿り着くのが先か、人間以外の生き物の心理を正しく読み解くのが先か。実はそんなのはあまり気にしていない。あるがままを、あるがままに。それをどのように理解するか。

先入観とか偏見とか持論があるのはしょうがない。だって人間だもの。ただ、認識というものは時代に依って変化するものであり、変わるものもあるし、逆に根底にあるものは変わらないものも多い。

一番の問題というのは、解りきっていることに対しての失敗が過去形にならずに現在進行系のままってことだね。100%防げる事案に対して学ばないというのは人間って意外と頭が悪いのでは?とか思ってしまう。

あ、違うか。生存本能が薄くなってるからつまらない事故や事件が途絶えないのかな?。

だって、一昔前じゃそんな凡ミスで事故死するなんて余り聞かないもの。でも、確実に世の中の理に無関心化しているし、当たり前のことなのに気付けない人は増えている。だからこそ世の中の事故や事件をせっかくネットで見られるのに、自分の興味のあるものしか見ないのであれば、お気楽すぎると思ってしまうのは変じゃないだろ?。

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