他に採取しに来ている人は居なかった。緊急事態解除だから他県の僧侶が来ているかもと思ったけど。
浜の状態が中の下って感じなので、昼で切り上げて終了。
まあ、結果は可もなく不可もなし。
天気は良いが風が強いので、今日は残りの時間を別の事に使おうと思う。
目も休めなきゃいけないので、仕分けはまたその内にやろうと思う。
さて、舎利石採集の結果の写真を見ているのは、僧侶だけではなく一攫千金を狙っている方も多いかも。
そして、自分も頑張ればここまで採れずとも良い結果を得られるのではないかとも思っているのかも。
でも、思うだけで結果を得られない場合、何が足りないのか分からない人が多いと思う。逆に、解る場合は結果を得られている筈なので、解るのは、結果を出せるようになったあと話となる。
この地味な作業は気力と根気だけではどうにもならない壁がある。何でもいいから異なるカテゴリの壁を3つ突破したあとの人なら入り口は何となく見えているかも。10くらい突破した人なら何をすれば良いかもう解ってしまっただろう。20くらい突破した人ならもう眺めただけで舎利石は見えているのは間違いない。
よく聞く言葉だが、見えている人が見えていない人に見えているものを説明することは難しいという。
でも、本当は見えていない人も実は見えているのだが、認識の違いで実際には見えているものが脳で認識されていないだけ。それはやはり見えていない事と同じで、関心の有無にも似ているのかも。
イメージの厚みという表現を使うとすれば、舎利石の写真を見て舎利石そのものを平面で見ているか立体的に見ているか。
レイヤーというお絵描きソフトの用語に例えれば、下から黒、暗い礫の敷き詰められた絵、太陽光で照らさてた礫の表面の半透明の絵。
そして、乾いているか濡れているか。光源の位置、光を屈折、反射、透過する舎利石。
この説明がイメージできる人はもう脳内に舎利石採取のフィルターが薄っすらできている筈。あおもりくま式のプラグインだと思えばいい。
何言ってんのコイツ?という人はイメージが薄っぺらい人だから偶然に頼る方法でしか採取できない。
オラは更に高度なというか、これができる人は少ないと思うけど、舎利石の中を通過した光を認知している。もうね、全て無視してその光だけ探しているから。
面で見る、光を認識、摘む。 以上。
スクリプトがこれ以上簡潔にならない状態だから、これ以上は高速化できない訳。
オラには黒胡麻の中に荏胡麻がポツポツあるように見えてる。というか、そう見えるように脳内視力のフィルターを切り替えている。
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