あおもりくまブログアクセスカウンター

2009年7月23日木曜日

視力の低下:実際にどう見えている?

自称「視力5.0」の熊野郎はどんなに視力が低下しても自力で補正できる変人である。

オラはパソコンの前に十数時間とか下手すると1日に20時間なんてこともある訳だが、過去に一番酷い視力の低下を経験したのは小学校の頃。本が大好きで漫画をちーっとも見ない幼児であった。
実は0.7まで下がったことがあるが眼科で眼鏡を掛けますか?と聞かれ拒否したことがある。

そのときの印象は覚えていない。
天体望遠鏡を買って毎晩見ていたら2.0まで(2.0までしか測ってもらっていないからわからないが土星の輪が肉眼で見えるくらいまで)回復した。

中学から高校に上がる時、ファミコンが流行って、歴代のTVゲーム機を全部所持して更にパソコンまでやってた高校から社会人数年目。
パソコンなんてできる人は殆ど居なくて機械アレルギーが無いオラは独学でWindowsの基礎をマスターするのに3日しか掛かっていない。

さて、現代は会社のデスクに一人一台のPCが鎮座しておる。
そうなるとそれ特有の病気っていうか症状が現れるわけだ。

軽佻なものだと星がハッキリ見えない程度から始まるが、この程度は星空を眺めればすぐに補正できる。



症状が進むと暗闇の明かりにフォトレタッチで超新星エフェクトをかけたような放射状のモノが見え始める。



ここまでは何つー事は無い。余裕で補正できる。
暗闇で数キロ先の街灯を数えられるくらいまで眺めていれば補正される。
観察するような感じで見れば治るよ。

さて、厄介なのがパソコンの画面を長時間見続ける作業が何日も、何週間も、1~2ヶ月とか続くと発症する焦点のブレだ。



これらの画像はオラが見えた像をパソコンで描いたモノだが、イメージ的にかなり似せている。
ほとんどこんな感じに見えてしまうと、マジで焦ること請け合いだ。
一番最初に発症した時にはショックで死にそうだったが、根性で補正した。
所要日数は相当掛かったぞ。

でも、こられの補正はコツを掴むと簡単に治せるのだ。
ここに実際に視力補正できている変人が居ることだし、努力と根性で眼鏡を掛けることを数年から数十年遅らせることができる。

何事も諦めないことだ。
人間の眼ってのは明るいものを見つづけるには適していないとか、同じ焦点距離のものを見つづけると寄り眼になって両目で見たときに近くに焦点が合ってしまって二重に見えたり、片目でも上手く像を結べずに輪郭がハッキリ映せない状態に陥ることがある。

その仕組みは眼球のモデルを見れば分ることで、レンズと水晶体と網膜と筋肉が関係してくる。
緑内障とか白内障とか網膜はく離にはなった事が無いので、目がおかしいと思ったら眼科できっちり検査してもらうことをお奨めするが、見えている異常事態を見えるように補正できるのもまた生物の力である。

よく「眼鏡をかけると眼鏡無しに居られなくなる」と聞いている。
オラは人間だけど、山男なので自然の中で、生身で最強でありたい願望がある。
これは自然の中では人間として行動するよりも、人間が大昔に有していたはずの能力。
つまり動物的なものが揃っていないと死ぬかもしれない。怪我をするかもしれないと思っているから。

つまり、自然の中では物理的パワー(筋力)とバランス感覚や体躯。効率が良くて正確な攻撃力。
精細な視覚情報を得られる優れた視力と、見分けられる脳の処理能力および伝達速度(動体視力)。
そして些細な音を拾い取り、聞き分ける聴力が生死を分けると自分に言い聞かせている。

眼は非常に大事である。同時に視界の外は聴力が補佐する。真後ろに眼があるような感じ。
見えていないけどね。存在は感じるし、音で方向も分かる。

視力が落ちたら自力で像を結べる距離を探し出す。
見ようとするのではなく、見える焦点距離を測るのだ。
この感覚が分らないと補正できない。
無意識に焦点を合わせようとするのではなく、見える範囲を探そうとする眼の使い方をすると、一瞬だけハッキリと見える位置がわかる。
機械的な例えをするならレンズと網膜の距離を、筒を伸ばしたり縮めて像を合わせる仕組みに置き換えるのだ。

だから、普通に目の前の人間を見るとちゃんと見えるよね。
でも、ちゃんと見えている人をボケて見えるように自在に焦点距離を変えられるのが補正ができる人。
つまり、ちゃんと見えているものをわざと見えないように焦点を通り過ぎさせることが補正の必須条件。
昔、流行ったモザイクを眺めると立体的な象が浮き上がるアレだ。
あれができる人はあの感覚を思い出そう。
あれを何度やってもできない人は感覚が分らない人である。

見えないものを見えるようにするには、見えているものをワザと見えない焦点に変化させられる感覚が絶対条件にある。
見えていることが当たり前だと思ってはいけない。
見えなくなったときにどうなるかを考えて、自分の目の焦点合わせを自在にアジャストできることが必要なのだ。

たとえば、見えているものを見えない焦点に合わせて、実際には見えないよね。
でも、その見えない位置が、将来、見える焦点距離になるかも知れないと考えれば、いま見えている焦点距離が見えない位置になるかも知れないのだ。

人間は眼だけで見えているのでは無い。
目で見たものを見ようとしたときに、脳がそれらを必要な情報と、要らない情報に分ける。
見ようと思えば見えるし、見ないと思えば見えるし、見る必要も無いものが実際には見えているし、意識して見るだけじゃなくてボーっと眺めてわざと焦点をずらしてみると何かイイ感じな風景に見えたり・・・
脳内で見ている風景を自分なりに一眼レフのファインダーを除いているような感覚で置き換えて焦点を変化させるのだ。

だって、人間の眼ってのは「写るんです」みたいに見えていると思っていても、本当は凝視している時は対象物以外がボケてるんだし、逆に、対象物をボケさせてみた時に、見えているのが何であるか何気なく試してみるのも面白い。

交差法と平行法は普段から無意識にやってるんだけど意識しないとそれも気づかない。
だって見ているものを見ようとしているから眼が勝手に像を結ぶ。
無意識に呼吸しているかのように。

でも、呼吸にも意識してやる腹式呼吸があるんだし、眼にもそれができる。
勿論、集中すれば耳でもできる。聞こうとしているか、無意識に聞いているか。

「みる」には色々とある。「単に見る」 「もの分析するために診る」 「物体を特定して観察するために観る」 他にも「視る」とかあるしなぁ。

「きく」だって、「単に聞く」のと、「注意深く聴く」のもあれば、「利く」こともあるよね。目にも「利く」があるように。

人間ってのは見えているうち。聞えているうちは気づかないんだよね。
それが当たり前だと思ってるから。

でも、想定して持っているものに応用力をつけておけば、それが必要になったときに初めて「できる」ことに気づくんだよね。個人差はあるけど、基本的に誰にでもできるはずなんだよね。

これを読んだ人は冗談抜きに感覚に範囲を持たせておけばいい。
そのどちらかにズレたとき、その範囲が見える範囲になっていることがあるから。
それには脳の処理も範囲を持たせておくといい。
自分がその位置しか見えないとなると、どっちかにズレたとき、見えないってことになるけど、予め見える範囲もボケる範囲も自在に変化させることができれば、見える位置がズレちゃっても脳がその見える位置を眼球のレンズと筋肉とで上手くアジャストしてくれっから。

( ´(Д)`)y━~~~ 分るかな? わかんねー人にはわかんねーだろうなぁ・・・

0 件のコメント:

コメントを投稿