小説「化物語」シリーズ最新刊 囮物語
ネタバレになるので詳しく書かないが、この終わり方って・・・オチも無ければ救いも無い・・・
小説冒頭で最後と繋がっているので冒頭を読めば結果が残念でも続きが気になるという感じ。
推らく、この話の続きは小説のセカンドシーズン最終巻で進展するのだろう。
「撫子メデューサ」はい、千石撫子とメデューサです。
いや、千石撫子がメデューサなのです。
冒頭ではもう結果が語られています。
蛇切縄の呪いを掛けられ、放っておけば起動しない呪いを自ら起動させてしまい、そして今回も撫子が。撫子自身の行為の結果で自滅します。
いや、ある意味では救われたのかも知れません。
障って障られた、障り猫。ブラック羽川は尾を轢かない猫に憑依され、自身で望んで自らが怪異と化し、そして自らが亜種の怪異まで発生させた委員長にはハッピーともバッドとも言えない結果を向かえられましたが、撫子の話はもう暫く先のことでしょう。
でも、自ら望んで。いや自らの心の有り様で生み出してしまった自分だけに見える怪異に取り憑かれた撫子の怪異は自身の後ろめたさが生み出した幻だったのかも知れないし、本当に居たのかも知れません。
怪異に関わると怪異に引かれ易くなる。撫子は以前に蛇切縄で怪異に関わっていました。今回はその後の話ということです。作者はサードシーズンがあるとか無いとか書いてますがどうなんでしょうね。セカンドシーズンの最終話でもしも吸血鬼のニーチャンと蟹女と吸血鬼金髪少女が(ゴニョゴニョ)に負けてしまったら主人公が変わるのでしょうか。それとも吸血鬼モドキがモドキじゃなくなってしまって(ゴニョゴニョ)が退治されてしまうのでしょうか・・・終わり方が煮え切らない珍しいパターン(というか、するがデビルの回もそうだったが)なので、作者が言いたいことはたぶんこうなのでしょう。
有るようで無いがある人にはあるし、無い人には無い。
だけど、有ったからといって、それがどうしたということも、結果に対してそれに理由があったり無かったり、ハッピーでもバッドでも現実にはそれは結果であり、起きたことに対してそれを選択したのは自分であって、その選択した自分がその状態に置かれていることはあくまでも自分の責任の結果であると。
そこに怪異や怪異ではない何かが関与していたとしても、それは結果的にそのフラグを立てた自分の責任でしかないということ。
怪異にはそれぞれの理由があり、どこにでも居て、何処にも居ないのかも知れませんが、オラはあからさまに見えるほどの霊感は無くても、起きているときに触 れられた(ボロ病院のベットの上を歩き回られ、ちゃんと歩いたところは感圧があり布団も凹んだ・・・)ことがあるので、「バッカじゃねーの?そんなの居 る訳ねーじゃん」とか言うような人種ではありません。ねーちゃんは見える人です。従姉妹の娘も見えます。母方の血族の女子に多いです。オラは男ですが少し だけ感覚としてあります。
オラは人生に失敗していますが、成功しているヒトだって「ある日突然死んでしまう」ということはあります。死んで当然という人間が生きていて、自分が代わってあげたいというくらい好かれている人が不治の病の宣告を受けることだってあります。
そこにどういった運が働いているのかは凡人たるオラには分かりません。神にしか分からないでしょうし、分かっていても教えてくれるとは限りませんが、あるいは悪人が規則正しい生活をしてて、あるいは善人が不規則な生活をしていた結果だけなのかも知れません。
健康診断の結果だけ見れば、オラは異常値と軽度異常が合わせて4個ほどありますが、これだけ太っていてもメタボと程遠い人より遥かに健康体でもあります。だって数値で見るその異常は数多の人の平均であり、オラ自身にとってはそれは他人の尺度であり自分の健康値の基準ではありませんから気に病む理由が無いのです。病は気からとも言いますし。それに気に病むというのは「病=災い」を呼ぶとオラは感じています。つまり気に病めば病気にもなると。
平均以上の体重と筋力を有し、霊感がちょっぴりあり、健康のすべては血液にあると自覚しているオラには病気になる要素がほぼありません。ああ、タバコを吸うから肺癌になる可能性はあるとしても・・・
それでもオラよりライトスモーカーの人が肺癌で死ぬこともありますし、オラより健康診断の結果が良い人だって他の癌で死ぬことはあります。
運動神経抜群の人が交通事故で死ぬこともありますし、何も無いところで派手にズっコケるドジっ娘が長生きするかも知れません。トラックで撥ねられても死なない人もいれば、自転車に撥ねられて死ぬ人も居ます。
この違いは何でしょう?。
いや、オラには答えなど無いのですけどね。
運という不確定で曖昧で数値化できない非科学的なものが関与しているとも言えますし、そんな訳ねーのだという断言もできかねます。
目に見得ない存在の影響というものはあるかも知れませんし、無いのかもしれません。
一生、金縛りに掛からない人も居れば、毎晩金縛りに遭っている人も居るかも知れません。
科学的にレム睡眠・ノンレム睡眠だとかで片付けるか、霊的なものの影響であると推測するかなんて経験者じゃないと分かりませんし、経験の無いヒトにはそれは無いのですから霊の存在など荒唐無稽な話なのでしょう。
つまりは、自分の体験したことなど他人に正確に伝える手段など皆無で、自分が体験したことが無いものは、つまりは無いものとして理解することしかできないのです。当然です、信じることは出来ても感覚の共有など今の科学技術では追体験できるはずも無いですし、この霊感という微妙で数値化できず科学的に証明できないものを経験の無い人と感覚共有できないからです。
オラがスズメやカラスとある程度の意思疎通ができる件にしたってそうです。
その感覚はその人の感覚であって、他人に理解できる範疇のものでなければ理解に苦しむのは当然です。オラにとっては彼らの仕草や鳴き声、アイコンタクトが言葉と同意に等しいほどの感覚で相互に疎通します。
この感覚を共有できるのは、この感覚を理解できるだけの感性と、理解力、洞察力、表現力が必要になります。あとは根気という努力と根性に匹敵するものも必要になるかも知れませんが、世の中には何にでも天才というものが何処からともなく沸いて出ますから、この感覚を自然に理解する人も居るでしょう。
ということは、それら人間社会に於いて特段必要とされないそれらの感覚はあっても無くても良いし、無いからといって死ぬわけでもありません。いや、そうではないか。無いと死ぬ確率が上がるとも言えます。でも、あったからこそ死ぬような目に遭うことや死んでしまった人も居ると思います。
つまりそんな程度の事なんでしょう。
だから怪異の有無も、運の有無も、五感以外の感覚も、ものすごくたくさんの要素の中のひとつで、それらがとんでもなく死亡フラグを立てまくった結果、人は寿命を全うすることなく死ぬのかも知れません。
例えば、ある重大なフラグによって瀕死の重傷を負ったけど、死亡までには至らずにフラグが消えて死なずに済んだというケースもあるでしょう。同じ事故。同じ傷を受けても、そこで救急搬送に掛かった時間や、その人がどれだけ出血しても死なないとか、打ち所の良し悪しとか、手術した先生のレベルなんてものがフラグを左右するからです。死んでしまった人は本当に悪いフラグが立ちまくったのかも知れません。
例えば、幽霊が見える人と全く見得ない人。仮に悪霊が泊まったホテルに居て、片方は高いびきで寝てて、もう一人は悪霊に影響を受けすぎてショック死してしまったら、霊感のある人の方が弱いのです。
例えば動物の声がある程度何を意味しているのか分かるとしましょう。動物というのはそれぞれに周囲の状況を声に出して周囲に知らせます。もしも危険があればその声で近くに何かが居ることを知りえます。でも、動物が何を言っているのか分からない結果、それを回避できずに襲われてしまった場合、動物の声が分からなかった為に危険を回避できずに死んでしまったという結果が残ります。周囲の些細な情報ですが、それをどう扱い、どう理解したかで生死を分けることもあるでしょう。
人がどういう行動を取り、どう接し、どう理解し、どう感じ、どう行動し、どう心がけるかでフラグなんてものはどうにでもなるのでしょう。たぶん、あるとか無いとかはその人の問題であって、それをどう回避したり、どうやって手に入れたかなんていくらでもフラグを左右できるのだと思うのですよ。
だから怪異が存在するとかしないとかは、実は居るとか居ないとかの問題ではなく、本人次第ということになります。
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