観察と理解と実践と答え合わせ
観察と理解と実践と答え合わせは得意だ。
誰しもが最初から詳しいとか上手くできる訳では無い。
初めて行なうのに上手く出来るのは、それ以外の成功体験の多さで「こうすれば良いかも」と、正解に導くコツを知ってるから。
頭が良いことが天才と思われがちだけど、別に勉強ができなくても天才には成れる。
むしろ、勉強には勉強の使い所があるけど、勉強しかできない人がその他の事を卒なくできるとも限らない。
オラは興味の対象が広いので、観察する事で知ろうとする。ずーっと観察していると気づく事がある。それが理解。じゃあ、それが正しいのか実践してみる。間違い探しと正解の確認だ。
オラの最近のマイ・ブームは石ころ拾いと鳥さん観察だ。ドライブとか車中泊は手段であって目的ではない。つまり日常の一部で、何かを作ったり便利にするというDIYですら手段の為の手段である。
努力の天才とかいう言葉は実際には不自然な表現かも知れない。
努力は「目標の実現のため、心身を労してつとめること」らしいが、心身を労してないんだよね。大抵は楽しくてしょうがなくて気づいたら疲れるのを忘れてやってたとかじゃないの?。
心身を労するっていうのは、ストレスがあるよね。逆に楽しいし過程を快感として感じていたら努力ではなく「時間を忘れてのめり込んでた」って事だし本人とっては遊びに近いんじゃないの?。
つまり、何かを極める過程がワクワク、ドキドキの連続だったら辛い事なんて無いでしょ。
昔から観察と理解と実践と答え合わせはやってる。多分幼稚園の頃から。勉強は嫌いだったけど、自分が感動した科目や分野については、人にレクチャーする手法は理解できるようにトライアル&エラーの連続。それも実践の繰り返しでコツが分かった。人に教えるのは難しい。
「知ってる人は、知らない人が何を知らないのか聞かなきゃ解らない」
もしかしたら昔は不得意な分野も、今では造作もなくできるかも知れない。
でも、最も重要なのはその過程を楽しめることが大前提で、それが役に立つ知識とスキルであること。
ここまで書いて気づいた人が居れば、オラが何を言いたいのか判るだろう。
何事も楽しめなければ覚えることは出来ないし上達もしない。
何事も実践しなければ正解を確かめる方法は無い。
初めから成功を目的として始められない内は何事も挑戦出来ない。
何事も失敗を恐れている内は自分の殻を破れない。
自分を普通の人間や普通以下の人間だと既定している内は突拍子のない発想や行動を自ら制限する。
天才と馬鹿と普通と常識と非常識が混在している事を自覚している人は何かに気付く事ができる。
普通の前後をふらふら~っとしている人は、馬鹿にも天才にも遠い。
究極の馬鹿は普通にも遠いので天才には最も遠い存在。
究極の天才は馬鹿な行為をしないので馬鹿なことに挑戦しない。する時は成功する確信がある時だけ。ただ、成功するまでは変人扱いされる事もある。
何事も楽しめれば勉強と仕事と遊びの境は曖昧で、限界に挑戦するするよりも、その時にできる限界チョイ超えまで実践して上限を更新できる。
ま、死なない程度にね。普通なら死んじゃう様なリスクでも、自分の限界を少しずつ更新すれば、いつかは常人の範囲を超えられる。問題はそれをする事を検討する事じゃなくて、やるかやらないかだけ。
とうに常人の限界値を超えちゃってると、限界値を超える事に慣れてしまうので、迷いは無くなる。後は覚悟だけ。
覚悟だけは出来てるんだけどね。衝動的にってのはあると思うんだよ。自制が効くかなんてその時じゃないと分からないでしょ。気づいたら成ってたって事もあるだろう。
その時が来るか来ないかまで今は気にすることは無いと思うし、予めシミュレーションは行なえる。馬鹿が好き好んで使う想定外って言葉だけは使いたくないものだね。
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