人間の目の解像度
ここら当たりが非常に参考になります。
http://kiyoeri.asablo.jp/blog/2006/06/23/417735/tb
http://lmaster.blog7.fc2.com/blog-category-11.html
http://www.hirax.net/dekirukana8/moire4/index.html
http://hiroba.chintai.net/kotaeru.php3?q=840223&rev=1
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さて、最初のリンクでは実に膨大な数のセンサーが内蔵されていることになるが、最終的に脳の処理能力に応じるらしい。
しかし、オラが買ったDSC-H3の画素数810万画素のズーム無しの画像を見る限りではオラの眼はそれ以上の解像度があると分かった。ただ、常にそれだけの解像度を使っているかどうかは別問題である。
これは脳が処理している情報量がその対象をいくつかのモードで単体もしくは同時、切替で処理していると思われる。それによって脳がその取り扱う情報量(画素/解像度)を調整しているのではないかと。
[運転している時の視覚情報]
たとえば、運転している時は事故を起こさないように時速数十キロで移動しながら周囲の必要な情報(路面状況・標識・歩行者・自転車・前後と対向する車両など)を視覚で取得しながら走行している。
こんな状況下では解像度はそんなに必要としない。つまり眼は動体視力を優先して解像度は低めになっているのではないかと。
ただし、夜など情報(状況)を取得しにくい時は、人間の眼で見えている情報の中で走行に必要な情報を得ている。昼より夜の方が見えている範囲(距離)が狭い(短い)ため、見えるギリギリのところに視点が移動しているはずだ。
オラみたいにかなり暗視が効く場合は夜でも200~300m先の歩行者や自転車までハッキリ視認できるが、他の人の目は知らないのでもっと目線は手前にあるだろう。ちなみにオラの視力・動体視力・暗視・幻惑からの復帰は5段階のほとんど5と4だ。視力は2.0だが、運転免許の適正試験は1.5以上測ってくれないし、それ以上は必要ないんだろう。
[本を読むときの視覚情報]
字が読めて、写真が見れれば良いし、雑誌の写真なんて虫眼鏡で見れば分かるとおり、情報だけであって、写真の美しさは「それなりに・・・」である。
つまり、これは読むために必要な程度の解像度で情報を得ている「見る」に相当する。 そう、単に見えているだけに近い見るだ。
しかし、ここでCJK圏と1バイト文字圏で違いが出る。漢字という文字を判読する分だけ眼の解像度には上がっている。1バイトな文字情報の国の人間より日本・中国・韓国の人は読むときの文字の認識に必要な解像度は高くなってるんじゃないかな?。(ただ、文字の表現は単純でもその文字を表すために英文字表記以外の文字を使ってるアラビア文字などはまた違った見方を必要としているかもしれない。あのミミズがのたくったような文字を文字として見るにはあまりにも約束事が多すぎるw)
日本語は難しいと言われているが、日本語の本を何となくでも読める外人は同系の漢字の国の中国人くらいだろう。逆に日本人が中国に行っても、看板の文字を見て大体の判断がつくのと同じだ。1バイト文字圏の人間には漢字に対する脳の処理が無いので日本語の学校に行ってなければ(予備知識が無いと)チンプンカンプン(死語)だろう。
[観察する時の視覚情報]
まぁ、カメラのズーム機能のように人間に眼にはズーム機能は無い。いくらオラが変人でもズーム機能があったらそりゃ妖怪か化け物か悪魔ってところだろう。残念ながら普通じゃないオラでもズーム機能は無い。
この観察するときの視覚情報については、その人の考え方、または幼少期の育ち方によって得るべき情報について解像度が変わるはずだ。それが例え同じ視力を持っている人間であってもだ。
ものを観察するときに必要なのは何だ?。その物体が何であるかを判断するにはまず何を基準に判断するか。これは図鑑や百科事典などでより多くの情報が事前に脳に記憶されている人間か、よほど図鑑などに無縁な物を知らない人間かで変わる。まず、予め脳にそれの情報が入っている場合は、どんな角度にせよ形状で判断するわけだ。
次に何で判断する?。仮にその物体が何であるか大体の見当をつけたとするが、完全にそれである確証は無い。それを判断するために観察するわけだが、色や表面の状態で判断しないか?。つまり、形状以外の色や表面の状態で判断してそれが何であるか最終的に決まる。
ここで、脳に格納されている情報量によって観察の違いが出る。それが分かる人間は形状・色・表面の状態で直ぐに判断はつくが、それと完全に合致していれば観察は終了する。ただ、疑わしい時にはもっと細かい解像度でそれが何であるか判断しようとするだろう。
しかしそれが何であるか分からない人間は、それが何であるか知ろうとする為に上記と同じ観察を始める人間と、それが何であるかどうでもいい人間なら形だけ見て「なにこれ、意味わかんねー」とか頭の悪そうな発言をする。
つまり、観察でも何でもない「見て終わり」という眼の働きしか使われない。観察するということで眼から得る情報をどのように脳が処理するかで視覚を取り扱う脳の働きは良くも悪くもなるということだ。
[探索モードの視覚情報]
物を探している時の視覚情報はたぶん一番解像度が高いかもしれない。その形状・色・表面の状態・多数の物体の中から見分ける識別などフル稼働状態のはずだ。
でも、これは頻繁に使用することで鍛えられ、見るという単純な視覚情報ではなく「観る」を超える状態になる。視覚情報もそれを処理する脳の処理能力も必然的に高くなる。 これがかなり長い時間。長い期間続くとどうなるだろう。
例えるなら山菜採り・海女さん・輝石収集・化石発掘などを行なっている人種だ。オラは山菜も採れば海にも潜るし輝石拾いもする。山菜などの場合は回りは殆ど緑と茶色の世界だ。この中から特定の。またはいくつかの山菜を探す場合、視力と脳は瞬時にその形状、特徴、色、表面の状態を判断し、該当するものであればロックオンする。よく、素人を同伴すると「みんな同じでどれが山菜だかわかんねー」と言われる。でも、「これが○○だよ」と教えると、今度はその形状を頼りに該当する形状を探し出す眼の使い方に切り替わる。つまり「見る」から「観る」に切り替わるのだ。情報を与えてやるのと、情報が無い時の眼と脳の働きはそれだけ違うのだ。
石拾いも同じだ。川原や海岸の何千・何万・何億という石っころの中から輝石を見つけるのだ。山菜同様に類似するものも全部眼に入ってくる。脳の処理も大変だ。
ところが、これも鍛えることで非常に効率の良い眼と脳の使い方をするようにプログラムされる。見回しただけで当該する石を複数同時にロックオンできるのだ。たぶん、色情報の他に明暗を感知する部分をかなり使っているはずだ。まぁ、これは宿題だ。石拾いをマスターすれば「なるほど!」ってことになる。これは凄い便利な能力だから。
海女さんも同じじゃないかな。ウニみたいに存在感アリアリな場合は馬鹿でも捕れるけど、アワビやサザエは岩に擬態しているから同じように形状だけでなく、貝の形状を岩の凹凸と識別して判断しているはずだ。同様に化石も石っころか恐竜の骨か、その特徴で瞬時に判断して観察し、発掘している。
このように、人間の脳の処理は考え方に寄ってその視覚情報を効率よく処理する回路を組み立てることも可能なのだ。
オラがどんなにパソコンをやっても視力が落ちないのもそうだし、乱視に陥った視力を短期間で矯正する方法を知っているのも、その眼球運動の方法を行なえるのも、複数の視力切替を何度も繰り返すことで修復できるという答えを知っているからだ。
感覚の違いを理解できれば、元々視力が良かった人間であれば誰にでもできる。かなり視力が悪くなってしまった人であれば元に戻すのは難しいかも知れないが、頻繁にそれを行なっているオラはこれ以上悪くはならない。
小学校の低学年で0.7まで落ちた視力を2.0まで自力で復活させたのもこの方法を既に実践していたから。きっかけは天体望遠鏡だったけどね。山菜採りと石拾いだけでは気付かなかったかも知れない。
アフリカの原住民は視力が5.0くらいあるとかTVで言ってたけど、地平線の米粒以下の獲物や人間を見分けるといった特殊な環境であったからこそ、それもアリではないかと。
やはり眼と脳の使い方がその視力の優劣を決めるんだろうなぁ。
とか思ってるオラが居る。