チャンネル変えても
暗いニュースとか、歌手の紹介とか・・・
ふと、数十年前に見た「明るい農村」が見たくなってきた。
ああ、あった・・・
なんか、画像とかオブジェクトの配置とアンカーだけど前より分り難くなってないか?
1.0系のほうが1つに纏まってて分りやすかったけど、クリックするタイミングで選択がされたりされなかったり、アンカーの位置が行かページかの選択が右クリックのメニューにあったり無かったりと操作性に不自然さがあるよな・・・
なんか前より使い難くなったような気がする・・・
メニューのまとめ方については全部右クリックの中でテキストを除いた対象を問わずに反応して欲しいよな。
合理的かどうかって問題では無く、分りやすさってものが3.0には欠落しているようで、普段から使ってる訳ではないが、やはりWriterについては使いこなせるかどうかってよりも「クセを覚える」って方が上手く付き合えるコツなのかもなぁ・・・
このままでいいんか?
オラはもっと直感的な選択というか他のワープロソフトに右習えしといて、プロパティーについては内容を充実させる方向に行って欲しいんだけどな。
ちょっと余りにも普通さが通用しないんで愚痴ってみた・・・
約束ごとも対象によって統一されていないような気がするし、そこはもっと簡略化できんのか?ってことが多い気がするぞ。
たとえば、ツールバーのキャプチャは見えているものには有効だけど、何かしないと色が着かない(要するに機能がONにならない)場合、ツールバーのカスタマイズの小さなメニューの中をスクロールさせながらキャプチャして切り取って、それらを整形しながら1枚の画像に繋ぎ合わせていくことだね。
しかもさ、表に出るツールバーと、機能を使用した時にのみ出現するツールもあるし、説明しようにも「なんじゃこりゃ?」なものがあるから、既に市販されているマニュアルとかも無い状態な場合は全部HELPに目を通さないと分らないし、見ても分らないって事がある。
自分で作ったソフトウェアや、使いこなせているソフトのマニュアルならまだしも、そのソフトウェアが多機能であればあるほど、マニュアルも巨大化するし、それらのキャプチャーの回数も増えるし、例えばそれらの画像が大容量になればなるほど画像を最適化しないとマニュアルそのものの容量も巨大化しちゃう。
かといって、最初からJPEGやPNGにしちゃうとスクロールがモタつくもんだから、無圧縮画像(つまりBMP=ビットマップ)が一番表示が速くて見るものにストレスを与えない。
これを手抜きしてJPEGなんかにすると滲みが出るわ、汚いわ、サイズを可変した時のもっさり感がクソで最悪のものになる。Web上でやるのならキャプチャーはPNGやJPEGでも良いのだが、PDFにする時はSVGやBMPの256色モードが一番パフォーマンスが良いのだ。
で、キャプチャーだけど、ツールのカスタマイズの項目をチマチマやっているのだが、流石に手先が器用なオラでも、その膨大な量に具合が悪くなってきた・・・
OSSの世界では、やれる人が、やれることを、やれる時にやる・・・の精神だ。
つうことで・・・寝るわ (-(エ)-).。oO ZZZzzz
投稿者 aomorikuma 時刻: 0:56 0 コメント
ラベル: OpenOffice.org
OpenOffice.orgが普及しない訳には根本的な操作性の非標準的な課題があると実感する。
Wordで言うところのテキストボックスの文字色に関しては、Wordはワードアートなどの画像としての文字を除くテキスト全てがツールバーから配色できる。
これは直感的で誰しも当たり前だと思える操作方法である。
ところがOpenOffice.orgについては、テキストボックスを挿入して入力した文字色を変えるためにプロパティーをわざわざ出さなければならない。しかも選択については以下のように非常に確実性が無い。
色を変えたい部分をドラッグして配色ができないなんてナンセンスだ。
①テキストボックスに相当するツールボタンをクリックする。
[T]のボタンをクリックして、範囲を選択するまでは同じだ。
②次に以下のメニューが出るまでテキストボックス内のテキストの範囲で右クリックする。
どうにかして出したら [ 文字(H) ] を選択する
③フォント効果でフォントの色を指定する。
テキストボックスの中のテキストの色を変えるだけにこれだけの手間が必要だ。
なんたる手間。なんたる面倒臭さ。なんたる不確定な呼び出し方。
普通、テキストボックスを選択して文字の色指定を行なうだけで済む機能も、クリックする位置がちょっとでもずれると、全く違うメニューが他に2種類ほど出る。
「いや、オラは文字の色を変えたいだけナンダヨ!」と思っても選択する場所によってツールバーが出たり消えたりで画面が上下に揺れる。クリックしたつもりがキャンセルされてしまったりでイライラする。
これはダメだ。これはもっとシンプルに、直感的に変えられるように簡略化(Wordと同じ操作)にするべきだ。これは面倒すぎる。
しかも、Wordの場合は選択したテキストボックスはそこに残るが、OpenOffice.orgの場合は、欄外にカーソルを置いただけで、選択範囲が消え去る。文字が入っていれば消えないが、いちいち文字を入れないと保持できないなんてナンセンスは使用者にストレスを与える。
これは頂けない。直してくれ。なるべく早く、分りやすく・・・
ちなみにオラは何度もOpenOffice.orgを直接入力するのが面倒なので、
OpenOffice.org ←おおお [変換]で出るようにした。
投稿者 aomorikuma 時刻: 18:44 0 コメント
ラベル: OpenOffice.org
IPA(情報処理推進機構)職員の私物パソコンによる情報流出について
ny使って個人情報を流出させたが、本人の個人情報と画像。
それに著作権法違反に関わるデータの入手リストが流れて祭りになった模様。
nyの使い方のモラルが悪いのは規制できないとして、プロバイダがこれらのソフトを完全に遮断する方法を確立させる方が先でしょ。
どんなに優れたソフトでも使い方を謝ると法に触れるんだし。
( ´(Д)`)y━~~~ ハンドタオルにアルコールを吹き付けて、ゴムリングとレンズを磨いたら・・・
磨いたら・・・磨いたら・・・・・・・・真っ茶色・・・Σ(゚(Д)゚ ) なんじゃこりゃー!
ヤニか? ヤニ?? ヾ(`(Д)´)シ ヤニなのかぁぁぁぁ!
1個で1L煮出せるお茶パック。
今回は特になにもブレンドせずに味わってる。
この業務用のほうじ茶は香りも味も絶品である。
三沢の親戚の家では、焼酎といえば焼酎のほうじ茶割である。
「色や風味も着いて、なんだかウヰスキーのお湯割りみたいで旨いだろ」
そう言われて勧められた焼酎のほうじ茶割り。
焼酎を飲む習慣がなかったオラが感動した焼酎の飲み方だ。
これから焼酎を飲めるようになったと言っても過言ではない。
今日はもう出ないし、出たとしても近所のコンビニくらいは歩いて3分だし飲んでも大したことが無い。
焼酎はノーマルの無味無臭の25度が2.7Lと、芋が2Lで3本、梅酒が2L1本、その他諸々ある。
急性アルコール中毒で死ねるだけの量は確保してある。
なんかあんまり考え込んだり将来を悲観したりヤバげな気分になったら酒でも飲んでへろへろ~になったもん勝ちだ。今日もとりあえず、生きているだけでオラという存在は希薄で無いに等しい。
正月だってのにどこにも行かなかったし、神社のお参りは昨年済ませてある。
来襲の土日は休みだからと両親が神社にお参りに行こうとか言ってたが、嫌々行くのも神様に失礼だ。
どうしようか考えるも、どん詰まりのオラにはただ日々を生きているというだけの存在でしかない。
果たして未来に劇的な変化が現れるかどうかなんて気持ちの持ちようとも言えるが、宙ぶらりんのオラは地面に足が付いていないし、死んでもいないが生きてもいない抜け殻だ。
・・・そんな事を考えるのもなんだか面倒で、不安定な天候で外を歩き回るのもまた面倒。
かといって何かをできるかと言えば、パソコンの前に鎮座して何かを作るかコミュニティーでも散策して文字列を眺めるだけ。
( ´(Д)`)y━~~~ はぁ・・・とりあえず、ほうじ茶って旨いよなぁ。
(* ̄(エ) ̄) まったく食べたいと思わないくらい粗食に慣れ、他の番組は何をやってるかとチャンネル替えるも・・・観たい番組が無いときたもんだ。
さて、これはどうした物かと時計を見るも、もうじき暗くなるのに外に出てもしょうがない。
かといって、これから遠出するのも面倒で、さっき食料と灯油を買ってきたので当面はこれといったものを買う必要も無く、かといって、室内でシコシコとマニュアル作る気にもなれない。
何気に蓄積した映画を見ようとPCにROMを入れるも腐ってて読み込めねぇ・・・HDDに入れとけば良かったな。
ということで読書・・・と思ったが、持っている本は全部読んじゃったしな・・・
(* ̄(エ) ̄) くまった
高給料理店で食うと10万かかるとする。
B級グルメの店で食うと1000円で旨いものが食えるとする。
たとえば大根は大根で、カブはカブ。魚は魚で、肉は肉。
全く同じものを使って料理を作っても、正装でなければ入れないおしゃれな感じの店と、大衆向けの食道やレストランではどちらも美味しいと思ってもその食べると言う行為とは別にステータスだとか、品だとか、優越感だとかそんな表面的なもので価値が上がったり下がったりする訳で、人間生きていくのに同じものをどういう形で食おうとも、よほど料理の腕前がカスでもない限り、どちらもおいしい物を出してくれるには変わらないし、同じ素材・同じ調味料を使ったとした場合、食べるという行為には変わりが無く、栄養価も変わらないわけだ。
人間という物は「形式」に金をかけたり、するが「結果」での判断をあまりしないことがある。
なんとも不思議だ。
オラは素材をドン!と出されて「これで旨いものを作れ」と言われたら旨いものを作れるだけの料理のセンスはある。
でも、有名なシェフが手間隙かけて上品に見えるような作り方をしたら見栄えでは負けるかも知れないが、味では勝ち負けはつかないだろう。
でも現実としては有名シェフの作ったものは「おいしく感じる」だろうし、「高級感」という付加価値にも対価が発生するわけで、そこが同じものを使って料理をしても価値が変わってしまうということなんだろうね。
物は同じだろうし、対価が変わるのは「おしゃれな感じ」「有名なシェフ」「小奇麗なお店」「鮮やかな見た目」「いかにも美味しそうな見た目」であって、どれもこれも「食べる」という最終的な行為に対して変わりは無い。対価がが違うのは「雰囲気」の違いであって「味や栄養価」などの実ではなく、「雰囲気」なのだろう。
人間とはそういうブランドとか著名だとか雰囲気だとかには高額な対価を払える。
美味しい食道と有名な高級レストランで食べ物の値段は10倍以上違ったりするのは、そういった見栄とか雰囲気とかそういうものに対する対価が加算されるんだろうな。
「食べる」という結果ではなく、「食べ方」に金を払う生き物。
「質実剛健」よりも「見た目」で決めたり、「使い勝手」よりも「見栄え」だったり・・・
人間って不思議な生き物だよな。
まぁそれはオレら人間に限ったことじゃないけどね。
夏の間はカモはパンの耳しか食わない。カラスはパンの耳よりも白い方。スズメも同じだ。
でも、食べる物が無い冬になると、エサが無いから何でも食う。好き嫌いなんて言ってられない。
出されたものを食うだけ。
いまこうして世の中が不況だって言うのなら、本当に物の価値っていう物を見直さなきゃならないんじゃないのかな。
必要な栄養を摂るために、見栄えのよいものを選ぶとか、食べやすいからとか柔らかいからとか味がどうとか。でも、スーパーにならんでいる見た目の良くて形や大きさや色の揃った野菜よりも、変形してて曲がってて色もムラがあって、傷が着いているものでも同じ野菜なんだよな。
野菜が取れすぎると価値が下がって輸送費で赤字になるからせっかく作ったものを畑で粉砕してしまう。
冷夏で育たないと高騰する。あまり作っていない野菜は高くて、ありふれたものは安い。
なんか世の中の価値って存在によって凄い無駄が生まれている。
曲がったキュウリは美味しいし。形の悪いピーマンやニンジンだってピーマンでありニンジンでもある。
小粒のジャガイモは早く煮えて皮ごと食える。形の悪くて頭が青いトマトは本当のトマトの味がする。
なんでも揃っていなければ気がすまない金持ちはそういう規格品を食えばいいし、形が悪くたって揃っていなくたって構わない人にとってはトマトはトマト。ピーマンはピーマンで、キュウリはキュウリだ。
それ以外の何者でもない。
形や見た目で食料を無駄にしすぎている。
産地で青いまま収穫して店頭に並ぶ時には赤くなってるトマトの味の無いこと・・・
地元で取れた規格外の熟れた状態で収穫したトマトの美味しい事・・・
真っ直ぐなキュウリよりも曲がったキュウリ。少し大きくなりすぎたキュウリ。色が不均一なキュウリ。
やっぱりキュウリはキュウリであり、キュウリ以外の何者でもない。
人間は自分でそれらを育てた事が無い人にとって本当の味を知らない不幸な生き物だ。
トマトは青臭いのがトマトで、キュウリは曲がった物でも井戸で冷やして生でバリバリ食うのが通ってもんだ。高級メロンよりもマクワウリ(津軽弁:マガ)の方が美味しい。
名のある魚よりも、スーパーに置かれていない雑魚の方が旨い。
本当の味と本当の食ってのも人間って奴は見た目や揃っているものの方が美味しいと感じるんだべな。
その当の本人である人間だって個性があるってのに・・・
その辺の価値観が全ての価値観の基準になってて本質が分っていない。
そう不意に思った。
ボードゲームの上でマネーゲームしてをもゲームの中だけで終わるが、現実のマネーで遊ぶとこうなる。
だれか一部の人間がが極端に得をするなか、世界では恐慌だのなんだの騒いでいる。
その騒ぎを一国の中のものとして「ふーん」で終われば良いものの、一国の恐慌が世界全体に波及するのは変だ。
経済学とかマネーゲームには全くの無知だけど、金融と一部の業界を見捨てて無かった事にして自立採算性に切り替えるということはできないのだろうか。
いつまでも同じ仕事があるとは思わないで準備してきた人は生き残れるだろうけど、それに依存してしまうと他での再建の余地が無いのだろうか。
何処の業界も、設けられる時に儲けられ、不況なら不況なりに人間は生きていくしか無い。
あてにならないものにしがみ付いて、あてにしていた物が崩壊すると連鎖的に崩壊するこんな経済システムなど、所詮、金が腐るほどある人間のマネーゲームが誰かの一人勝ちで終わったのだろうか。
コピー機でお金を大量にコピーして架空のお金があるとしよう。
でも、全体では架空のお金も本物も偽物も無く同じお金で、全体のお金の価値が無くなっているのではないだろうか。
価値の無い物に欲しいからと無意味に大量のお金をつぎ込み、無駄に物の価値を挙げ、そこには何処かの誰かが儲けている事実があるし、ただ、そのあぶく銭で使え使えとゴミを買い捲り、一度価値が下がると一気にものの価値が下がる。
勿論、金もあるだけで実際の金の価値は紙屑同然。それでもそのお金を必要としている人間は居るのに、世界のどこかでは使っても使い切れないほどの金を持っている人間も居る。
なんでも成功するのは良いことだけど、この世界的な物の価値やら貨幣の価値って、出回ってこそ価値があるわけで、現状で出回っている金はコピー機で次から次へと増やした価値のない金。
言い換えればお金であると同時に、流通していないお金を架空のお金で水増ししているだけの紙屑だ。
その紙屑は実はプラスのものではなく、マイナスのお金で、そのお金を発行している国の借金だ。
金は天下の回り者であるかどうかは、腐るほど金を持っている人が世間に消費という形で放出しなければ全体が幸せになれないんじゃないかな。
儲かっている会社が正義かどうかなんて中身を見なくちゃ分らないけど、投資とか株とか訳のワカナラナイものでお金の価値が高くなったり安くなったり。
ハッキリいって、オラから見ると投資とか株って経済と言う名の単なる博打にしか過ぎず、本当の価値ってその物の価値ではなく、一般には出回らない架空の金によって動いているのではないだろうか。
現在手元にあるお金の価値が1万円は1万円の価値があっても、缶コーヒーが240円になったら1万円は5000円の価値しか無くなるわけで・・・
世の中の価値って何を基準として決められるんだろう。いっそのこと、金や株や投資する物の価値ではなく、製品とかサービスとか目に見えるものの基準によって決められればいいのにな。
ものの価値が買う側の人間によって高いものもあれば安いものもある。高ければ良い物で安ければ悪いものという基準は誰がどこで決めるんだろう。
金を転がして遊んでる連中にとっては、博打感覚の遊びかも知れないけど、形の無いもの。目に見えないもの。架空のもの。酷いものになると夢にまで金がつき込まれている。
ある国でキャベツを1個20円で買ったとして、それはその国ではその対価で充分なわけだ。日本では100円で全く同じキャベツを売ってる。それもでそのキャベツを高いとは思わないだろう。
ある国では1ヶ月1万円で充分な生活ができ、有る国では10万円無いとロクな生活が出来ない。
よーく考えると、それって高く売ってる国は同じものをつくり売るために100円貰わないと作れず、有る国では20円でも充分だという。
お金って、お金の価値って、そして物の価値ってなんだろうね。
どうして人間は形の無い物にお金を無駄に投資したり、価値観というもので労力に見合わない給料が決められ、一部では有り余るほどの金を手にするものが居て、ある者はいくら働いても一向に裕福になれない。
ほんと、お金っていうもの自体の価値って何なんだろうね。
一番美味しい時間に来るからタイミングを逃した・・・さて、どうしたものか・・・
まず、食料は親が補充していった。これでとりあえず、食料の心配は無い。
つうか、保存食はたんまり有るわけで、貧血を起こすほど栄養失調ではない。
まぁ、また痩せたと驚いていたが、オラ本人は自覚は無い。
つうか、繊維の摂りすぎで大きい方が出ない・・・気張らねば・・・
灯油を買う買うと言いながら6日も経った。
この石油ファンヒーター。1回満タンにすると1週間ほど暖房できる。
ファームウェアが気に入らないが、省エネ効率は非常に高い。
でも、予備が無いので灯油は買いに行かなきゃならん。
動物性タンパク質はサンマの缶詰と卵の自販機で買い溜めしたのがまだ20個残っている。
鶏卵は完全食品なので1日に1~2個食っていれば他は白菜の炒め物に乾燥ワカメと大根っ葉と切干大根と乾燥オカラに乾燥キクラゲがあるのでビタミンミネラル、繊維、微量元素は健康茶も含めて充分ある。
さて、何が不足しているか・・・(* ̄(エ) ̄) あ、トイレットペーパーと酢、癒しが足りない・・・