「けしからん」とは
悪い意味と最近は良い意味がある言葉。
悪い意味と最近は良い意味がある言葉。
「欲望に負けブレーキがききませんでした」満員電車で16歳の女子高校生の尻に股間を…“前科二犯”の痴漢の男 きっかけは犯行前日に見たAV 自身には“ADHA”の障がい「自分を押さえられないことがある」
単純にさ。
障害があるからしょうがないとか、刑を軽くして欲しいとかいうのは被害者に対して申し訳ないという気持ちが無いから。こういったものは「道徳心」の有無という基準で全て片付けられる。
自分に対する言い訳に使ったり、障害を盾にだってしょうがないというのは、単純にモノゴトの良し悪しが分からない子供じみた行動だ。
自分に言い聞かせるということは大人なのだからできるでしょ?。
誰だって心の奥底には欲望があるし、妄想はあると思う。
それを押さえつけるのも自我であり、それを実行してしまうのもまたその人の自我である。
こういった障害を理由にした犯罪については思うところがある。
養護学校近くで相次いだクマ目撃 生徒の下校に職員付き添う 青森市
自然豊かな
森に面した
トカナントカって場所だもの。熊ぐらい居るべさ。
ある意味で、自然の豊かさを誇張する場合、そういった大型獣の出没も可能性として考慮しなければならない訳で。
だから熊が出たってニュースになったところで、別にどうってことはない話である。
「一生懸命育ててきたのに許せません」長いも100本盗まれる 青森市
写ってないけどさ、多分、小牧野遺跡の前の畑じゃね???
でもってさ。
人間じゃなくて動物(イノシシ)に食われたという可能性は???
だって、青森市で長芋栽培とか聞いたこと無いし。
知ってて盗むにしては計画性がない。
場所が場所だけに犯行時刻は早朝か、17時以降でしょう。
陽が長いし、向かいには不特定多数の観覧者が来るので。
それに種芋を盗んでどうする?って感じ。
だから動物が食ったとも思えたり。
秋田の山中に出没した「人喰いグマ」の「ヤバすぎる正体」…!報じられない地元の証言「どう見てもツキノワグマじゃねえ」「デカすぎる」
あと、年齢の高い赤毛のツキノワグマも居るとか。
オラが遭遇しているクマはツキノワグマで間違いないし、大きくてもせいぜい1mくらいまでだ。撃たれて死んでたのはかなりデカい。ごろんと丸っこくて体重は百数十キロはあるとおもう。
対処できそうなのは1m20cmかそこらまでだろう。それ以上となると相手次第。無言の威嚇が効くかどうかはその時次第。子連れ以外の単体じゃどうってことない。子供単体にも出会ったことはあるけど逃げられたし。若い1mくらいの個体は相互に観察してただけだし。
例のクマ牧場から逃げ出した個体が行方不明のが居るってのは初耳だ。てっきり撃たれて終わったかと思ったが、行方不明ってのはマジでヤバイ。北秋田には人は住めないだろうね。ただでさえ秋田県は全国で一番先に消滅すると言われている訳で、それに加えて熊の被害も半端ない。それに輪をかけてヒグマとのハイブリッドに大きな赤毛のクマ。
車に積んでおいて銃刀法に引っかからない武器が必要だよな。うーん。鉄の丸スコップ辺りが最強な気がする。バールは積んでると駄目だし。カマもだめだ。
唐辛子を煮出した水を水鉄砲でぶっかけるのはかなり効きそうだけど。ついでに木酢液+唐辛子のミックスを作っておけば、寝る時に周りに噴霧して熊よけってことも可能か。
秋田が一番先にモンハンみたいな世界に成りつつあるってのは確実だろうな。銃刀法うんぬんなんて言ってられないぞ。
もう20年以上も前かね。2度ほどこの奥の山にタケノコ採りに行ったことがある。入山料を払って入る山で、昔から地元民には馴染の場所だ。
今年も既に遭難者は何人も出ており、迷うくせに何で山に入るのかな?とか思う。ドMか自殺願望でもあるのだろうかと首を傾げる。その迷わないという根拠のない自信はどこから来るのだろう。無論、過信で遭難する人も居れば、これまで大丈夫だったからこれからも大丈夫だろうという自分の衰えを自認しない人も。
こんな世の中だから年金だけでは食っていけないから、少しでも小銭を稼ごうという人も居れば、山菜を採ってきて近所に配って自慢したいという人も居るのだろう。でも、遭難したら誰かに迷惑を掛けるわけだし、それで命を落とす危険なんぞ山ほど考えられるのだが、全無視してまでも実行に移すほどのメリットはどこにあるのだろうか。
山菜採りの魅力はオラには解るし、オラも山菜採り歴は長い。年齢=ほぼ山菜採り歴なもんで。半世紀以上も経験があってまだ五十代だよ。幼少期から一人で藪を漕いでいるわけで、山での方向感覚は絶対だ。笹薮の中は視界ゼロでも何ら問題は無い。見えている世界が違うんぼだから。だから迷う人の感覚が理解できないし、見えている情報から方向なんぞ幾らでも特定できるわけで、いったい何を見て(何を見ないで)迷ったと言っているのか。
東京とかコンクリートジャングルで遭難する自身があるオラは、山で迷うという感覚がない。むしろ、オラは大都会に行くとてんでダメダメになるので人口密集地には絶対に行かない。逆を言えば普段から人工物に囲まれて育ち生活している人と、オラみたいに人混み大嫌いで野山を闊歩している方が幸せな人間。山の歩き方は体に染み付いている。依って大都会には近づかない。であれば逆のパターンも然り。無理してできないのに人に迷惑をかけてまでしなければいけない事なのかと。
山のルールも分からずに山奥に入る人の気持が全く理解できない。自分が老いて山で体力が尽きる可能性があるほど弱体化していることに自分自身が気付かないとしたら、自分の体の声が聞こえていないのだろうかと疑問に思う。
自分の体のことは自分自身が一番わかっていて当然であるが、そうではない人も実際は多いのだろう。自分の身体の状態ってのは自分自身の五感の範囲内でわかること。自分から排出される大小便から解ること。自分の体臭や食事の傾向の変化。水分摂取と排尿の頻度。自身が感じる自身の体重を支えられる骨格や筋力なんてものは日常的に気にすれば自認できて当然。
でも、実際は無自覚とか、無関心とか自信過剰で自分は健康だと思いこんでいて、それでも感じる違和感や痛み。体の重さの感じ方に以前より衰えや不調があるにも関わらず認めたくないとかいう無用なプライドがあるのかもね。
絶対に無理をしない。やるなら徐々に慣らす。感覚として掴めてからステップアップする。わからないことはネットで調べるとかベテランに聞くとか、かかりつけ医に聞くとか、検診センターで体組成を測ってもらって、自分の骨格筋量や脂肪の量、ビタミン・ミネラルで大凡の肉体年齢は解るし、自身の体の傾向というものが解る。
自身のこれまでの経験というものを一度自分自身で精査して見れば良い。そしてブランクがどれくらいあって、自分の習熟度もきちんと評価すればよい。格好いいというのは難なくそれを熟したうえで余裕のある行動をとれること。山菜採りに行って遭難するって事自体が死ぬほど恥ずかしいことだとオラは思う。ま、死んでる人も多いわけで。後悔しても遅い訳だが。自分を客観的に見れなくなると、こういう事故は起きるが、事故というよりも結果だけ見れば自殺行為でもある。
家族でそういった無茶をしていて何度言っても言うことを聞かないんだったら、遭難しても捜索願は出さないからね!くらい言ったらどうだ?。
よく使う細かなモード設定を記憶し、必要に応じて呼び出してすぐに使える機能。
色々と試したり、それを無意識に使っていたり、生物なのでたまに使い方が分からくなっていたり、プリセットが消えていたけど不意に思い出して使えるようになったり。
やはり意識するというのは重要で、たまに使うことによって強固に焼き付けることができたり、使わないと消失することもある。ナマモノだけに。
ナマモノに限らず機械でも何らかのきっかけで消えたりもするが、本人が設定を覚えていれば再設定すれば良いだけだ。でも、ナマモノだとそうはいかない。感覚的なもので設定をエクスポートして、忘れたらインポートって訳にもいかない。だってナマモノだから。
今日の出勤時、しばらく使わなくて消失していた視覚に関するプリセットが不意に復活し、ああ、そうだ、そうだったと妙に感動したのだが、感覚的に習得したものって感覚を思い出さなければナマモノのフラッシュメモリなんぞ直ぐに消える。
だから、普段使わなくても時々にでもいいから使ってやることが大事だって気付いた。
このナマモノのプリセットだが、脳科学で言う「手続き記憶」に相当する。要するに体で覚える一連の動作を習得する機能で、自転車に乗れるとか、車を運転するとかのやつ。
ゲーム中にいちいちコントローラーのボタンの位置を見ないでしょ?。運転中にいちいちペダルやシフトの位置を確認しないでしょ?。自転車に乗る時にいちいち右を踏み込む、次に左を踏み込むなんて考えないでしょ?。つまり体が覚えているってやつ。
感覚的な裸眼視力のピント機能と、脳内視力の見え方の組み合わせで、視野内全体の情報を均一に知覚するプリセット。
多分、この視力のプリセットは視野全体に写っている目標物を同時に複数知覚するための視力のプリセットで、例えば戦闘機パイロットは後ろ以外の前方、左右。上方の視野角に敵機などが入り込めばそれを知覚してドックファイトに備えるわけだ。
映画やアニメで殺し屋が前しか見ていないのに左右方向の敵を二丁拳銃でバンバン撃っちゃうアレも視野内全ての敵の位置情報を自分を中心として正確に近くして拳銃を敵に向けて弾を発射する。
運転に関してのオラのこのプリセットは、視野の中心点のピントを曖昧にして解像度を下げ、中心部分の視覚情報を低下させる。中心から外縁に向かって人間の網膜の解像度が下がるので、中心部同様に視野内の視覚情報を限りなく均一にすることで視野内全ての動体や物体を同時に知覚することができるものだ。
これがあると常に運転中に視野の中心部の解像度を上げっぱなしにしない。ピントに使用する毛様体縦走筋や毛様体輪状筋の疲れを抑えることもできる。要するに写ルンですのように眼球の筋肉を使わず、ただ目に入る情報を網膜が受け取ってる状態。ピント合わせ処理が必要ないので目の筋肉の疲労を抑え、逆に脳内視野全体を捉えた状態で脳視力を点ではなく面で全体を処理する。
この視力の使い方はシューティングゲームなどの上級者は誰しもが持ってる。画面内の敵機をいちいち目で追わないので、ゲーム中に眼球はほぼ動いていないのだ。これは大昔にTVでも紹介していた視覚の使い方で、上手い人と下手な人の視点を機械を使って計測して科学的にも証明されている。
ついでに、今気づいたこと。
今のオラの視力がかなり良くなっていること。不思議なほどに近い(とは言っても2m)ものもハッキリと見えている。遠いものは常にかなり高解像度で見えているのでそこはいつもどおりではある。多分、何かを掴んだから見え方が変わったかもしれない。それが裸眼視力なのか脳視力なのかはまだちょっと正確には認識できないけど、単純に見えるとか見えないとかって眼球そのものの性能や状態に依存しない視力の補正によるものだとしたら、眼球の老化による劣化は人間は避けられないとしても、脳内でそれを補正することで実は見えないのは認識の方法であって、実際には眼球は視覚情報を脳に送っているのではないかと。
あくまでもこれは想像ではなく妄想の範囲ではあるが、仮に人間という特殊な知的生命体が持つ認識による事象の改変(ここでは眼の劣化を補う情報の得方に何らかの干渉)を行なっているのだとしたら、この見える見えないって、本当に眼だけで見ている外界の情報なのか疑問が出てきた。
もしかしたら、オラにしか見えないオラが見ている世界の情報が、気づきによって更に多くの情報を拾い集めているとしたら、他の人が見えていないものはオラにしか知覚できていない。あるいは存在してない可能性もあるってことだ。
仮にこれが正しいとしたら、色々と納得できるオラの固有スキルも説明がつくんだよね。訓練すれば誰にでもできるもの。幼少期に獲得していたからこそ今でも使えること。大人になって様々な見方に違いがあることに気づいて、その見え方を自分なりに脳内で作り出すこと。感覚として共感できる人は少ないかも知れないけど、肉体内の感覚って共有できないものだから、オラが見ているものは他の人には見えないのかもしれない。
うーん。また何かに気付いた感じがする。
肉体は老いるもの。でも、肉体に依存しない外界からの情報の知覚を仮に脳内での補正で性能以上のものを引き出せるとしたら、老化によるどうしようもない現実をどうにかできるかも知れない。
ま、毎年のことだが。
平日はギリギリまで切り詰めるようにする事にして、ガソリン代を捻出。普通に夜にスーパーを利用すると2〜3千円使ってしまう。
自分の脳内イメージを相手に伝える場合、語彙の豊富さだけではなく、図や写真や五感に訴える手法をフル活用することと成るが、大事なのは表現方法の多彩さ、それを表現する為の手段と、使い熟す器用さが求められる。
決まったのでヨロシコ(机上の空論)