今日から秋
朝の日差しは、ストーブの赤外線が刺さるようなジリジリしたものから変わり、陽の熱も半減した。
空気は秋らしく冷涼で、そよぐ風で体感温度が昨日とは別物になった。
長い永い夏は終わり空気とともに水も冷たくなる。たった1日か2日でここまで変わるのかと思うほど夜の気温が急降下して、草木も緑から黄緑色に差し掛かった。
人にはそれぞれ秋を感じる被写体がある。
ススキであったり栗やクルミ。街路樹の葉、稲穂、スーパーの鮮魚や野菜コーナー。
そしてオラは野鳥である。
気の早い連中は秋が来たのだとせわしなく活動をはじめ、これから来る暖色の季節と、その後に来る寒色の季節に備えてしっかりと脂肪を蓄えようと躍起になっている。
人間が食べ物で季節を感じるように、空を飛ぶ者も食料の変化で季節を感じているのだろうか。
生き残ったヒナたちは大人の様相に少しずつ変化し、短い一生のうち早くも最初の難関を乗り越えた余裕からか、成鳥に混じって生きる術を見せ付けてくる。
恵みの秋は短く、その後に来る真っ白な地獄のような世界は長い。
食べ物はほぼ全て雪に埋まり、ひたすら寒さと飢えに耐えなくてはならない。
僅かに残った木の実と雪から覗く僅かな草の穂。除雪で掘り起こされた地面から僅かな草の種と土をほじくり、なけなしの羽毛を精一杯膨らませて身を寄せて寒さに耐える姿を見せ付けられると、ついついメシ食いに寄ってけと誘いたくなる。
風雪を凌ぐための隙間探しも見ていて一生懸命さが伝わってくる。
人間からみれば大変だねぇ・・・で済むが、彼らにとっては生死を分かつ大事な塒(ねぐら)である。
塒の争奪戦はフワモコがチョコマカと乱戦していて人間から見れば可愛いと思えるが、本人たちからしてみればそれで運命さえ決まってしまう。まさに命がけである。
スズメに生きる力を貰い。カラスから笑いを貰い。カモには癒しを貰い。ハクチョウとカモメには怒りを貰い。
怪我をして死んだ顔見知りの鳥の全てに悲しみを貰った。
人間が生きていくには、働いて対価を貰い生活に必要なものを買えばいい。
でも、人間の精神的を安定させるには感情の起伏「喜怒哀楽」が必要だ。
嬉しいことがあれば高揚し、怒りがあれば高ぶり、悲しみがあればしょぼくれて、笑いがあれば忘れられる。
春夏秋冬には喜怒哀楽に通じるものがある。
春は始まりの高揚と期待。夏は全ての命が高ぶり。秋は実りの喜びと感謝。冬には静けさと厳しさ。
生まれて育って実って死ぬ。
まぁ、晩夏に産み付けられて、秋に育ち、冬に耐えて、春に羽化して、夏に成熟し、子孫を残して死ぬ昆虫とは少しずれるけど、鮭などに代表される魚のそれにも通じるところがある。
春夏秋冬の命のサイクルと食物連鎖と喜怒哀楽。巡り巡って人間にも大きな影響を与えている。
人間と人間が目にする生き物の命の営み。
秋になると冬の足音が聞こえてくる。
雪国に暮らすオラからしてみれば「また雪かきせにゃーならん嫌な季節が来るんだな・・・」と憂鬱になる。
でも、苦しい冬が来るから春の山菜採りや鳥たちの子育てを間近で見る喜びがある。
夏は冬の次に嫌い。寒いのは着ればいい。でも、暑いのは我慢ならない。オラにとっては夏は雪かきが無いだけで灼熱地獄の夏だ。
その夏が終わって涼しくなる今の季節。本来なら「ねぶたが終われば秋」なのだが、今年の夏は一昨日までだった。ほんと、夏が1ヶ月延長されやがったチクショー!・・・だった。
熱中症で死ぬかと思った嫌な夏。
それが終わった。やっと終わったのだ。
何もしなければ毎日はあっという間に過ぎ去るのだろう。
そして1年が短く感じるのは老いたからだ。
そして気づけばオラもジジイになっていつかは死ぬわけだ。
秋ってそういうことを考えさせられる季節でもあるし、言い換えれば終わりの手前でもある。
人間なんていつかは死ぬんだけど、それが明日かも知れないし、数年先かも知れない。
それこそ今が人生の折り返し地点だったら、あと40年あるわけだ。
人生ってのは短いかもしれないし長いかもしれない。
もしも人間の一生が短かった大昔のように、30年か40年も生きれば長いほうだったら・・・
まぁ、そんな気分になる。
明日死ぬかもって思っても死ななくて、明日の夜には明日死ぬかもって思ってる自分が居るかもしれない。
お気楽にこのまま「死ぬまで生きる!」なんて言って、独りで納得して寝たら朝にはあっさり死んでるかも知れないのだ。寝床に隕石が直撃したりしてね。或いはダンプカーが突っ込んで即死なんてことも無いとは言えない。
オラの顔見知りのスズメどもがどんどん居なくなっているから死んだんだろうな・・・と思ってたら実は生きてたなんてことも多々あった。人生もそんなもんだと思えばスズメだろうとカラスだろうと、ニンゲンだろうと、生きているのと死んでしまうってのはそんなに大差ないのかも知れないのだ。
死後の世界があるかは誰にも分からないんだし、死んだら無に帰すか、意識が肉体から離れるだけかも知れない。そんな肉体の有無だけで生死の違いが片付けられるのなら生きてても死んでいても大差ないとも考えられる。死んだら何も残らないと考えるのなら死というものはある意味で怖いのだが、その辺は個人の考え方次第。消えて無くなりたい人は亡くなるのは無くなるのと同義語なのだろうが、死後の世界があると考えている人にとっての死ってのは何だろう?
宗教と科学は対極であり密接であるとも言われるし。
宗教を持たないスズメやカラスなんかは死というものをどう考えているのか聞いてみたい。
まぁ、顔見知りのカラスが夢に出て、翌朝に散歩で海岸に行ったら死んでたってこともあるから彼らにも死後の世界という考えがあるのかもしれない。
現世での縁と来世での縁。現世からあっちの世界に旅立つときに、現世の知り合いの夢に出る。
それがたまたま人間じゃなくてカラスだったってことだけ。
そいつは特に人語でアリガトウとは言わなかったが、言葉ではないアリガトウは聞こえた気がする。
寝ている間は死んでいるという考えもあるようだし、夢とは死後の世界かも知れないし。
死後の世界ってのはある意味で永遠に続く夢みたいなものかもしれない。
そう解釈することもできる。
だとしたら・・・夢を見ない人には死後の世界が無いとか、夢を見る人には死後の世界があるかもしれないという解釈もできるのかな?
( ´(Д)`)y━~~~ ・・・ うーむ