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2009年10月14日水曜日

心神耗弱状態で無罪を主張するのは逃げだ

坂出3人殺害:控訴審も死刑判決 高松高裁

この事件には色々と考えさせられるが、どっちが悪くてどっちが正しいかなんて当事者の問題だ。
だけど、それを理由に人を殺すっていうのは何をもってしても正当化したり罪を逃れようとすることは許されてはいけないと思うのだ。

もう時間がかなり経っているので事件の詳細は忘れたけど、こういった事件の争点が殺人と言う事実に対して正当化を要求するのは変だといつも思う。

事件の概要は除いてオラはこう思うのだ。

殺人の事実がある場合、正当防衛も含めて殺意があっての事だ。相手を殺さなきゃ自分が遣られる。
ただ、相手が悪い場合は問答無用で殺した人は無実でいいじゃんと思う。
ちゃんとした事実確認ができればだけどね。それには目撃証言とかも必要になるし、普段の素行なんかも調べられるから、どういう人間なのかは周りがよく見てる。

「カッとなって我を忘れる・・・」ということもあるだろうけど、それを一呼吸置いて考えるのも人間。
逆恨みの場合は「身勝手な行為」な訳だし、問答無用で有罪でいいべさ。
自制がどれだけできるかってことが人間の器なんだろうけどね。
最近のお子様には我慢強さがやや足りてないと思われる節があるが、中には感心させられる子供も見ているから、そういった子には大人としてちゃんと誉めてあげると言うことを忘れてはならない。

人間ってのは色んな理由で人を恨むものだ。それが殺意にまで達するものかどうかだけど、大したことが無くても殺したいと思う人も居れば、「どーしよーもねー馬鹿だし、可愛そうなヤツ」と済ませてしまう寛容な人も居る。ただ、度が過ぎるとこれまた厄介だ。人生を狂わせられるほどのことをされたら殺意を抱かない方が異常事態だ。懺悔すれば許されると言うような奇特な宗教じゃあるまいし、世の中には謝っても許されないことってあると思う。
勿論、その加害者が未だに謝罪しないと言う場合には殺意を突然抱く事だってあるわけで、もしも誰かに「あの時は本当に悪いことをしたなぁ」と思うのなら、謝ってみるのが一番だろう。逆に「いや、そんなことあったっけ?」と言われたら気まずいかもしれないし、「ああ、気にしていないよ」と言われたらスっとするだろうね。

相手に非があり、殺されてもしょーがないような人だったりする場合ってのはあるよね。それでも、結果からそうだと思わせられるとしても、その人のことを知らなければニュースで聞く人格程度のことしか分からないから「そうだ」といわれれば「そうなんだ」としか言いようが無い。

人間だからそういうのはあると思うんだ。ただ、自分がそうならないようにしなきゃいけないんだけど、自分が知らず知らずのうちに何かをやらかしている可能性はあるのだ。
本人にとってそれが些細なことでもね。他人にとっては非常に不快だったりするわけさ。
まぁ、オラも無いとは言えないよな。オラだって完璧な人間じゃないんだし。

で、死んでもしょうがない人が居たとしてもだ、例えば「どういう育てられ方したらこういう人間になるんだ」と一呼吸置くのさ。そうなると「かわいそうなヤツ」で整理が付く場合だってある。
人間てのは殺したいほど憎いという感情を抱くこともあるけど、冷静になると「まぁ、そのうち自滅するだろう」とかほくそえむこともできる。自分が殺意を抱くよりも、そのうち自分が撒いた種で自滅することを想像することで気が晴れるってこともある。自分が殺人者にならないためには、心のリミッターで抑えるよりも冷静にその後をシュミレーションすることで「どーでもいいや」状態にすることの方がストレスが少ない。

裁判ではよく、凶器を用意するなど殺す前提だったかが問題になるけど、殺す前提ならその場にあるものを使う事だってできる。
身の回りを眺めてみよう。非力な人間でも人間を殺せる凶器となるものはいくらでもある。
いや、凶器なんて相手にダメージを与えるための補助用具に過ぎないのかもね。
相手が向こうを向いたときに、勢い良く襟を掴んで床に叩きつければバランスを取れずに後頭部を強打できる。一番の凶器は、人を殺そうとする意思なのだ。だから、凶器の有無も殺意の多少に影響しない。

今の法律では凶器を事前に用意したかということも考慮に入れるが、それは違うと思うな。
頭の良い人には分らないと思うが、やり方次第で子供が大人を簡単に行動不能に陥れることが出来るもんだ。だから、今のお子様は家でTVゲームばっかやってないで古武術の道場に通ったほうがいい。
体が覚えたことは、そう簡単には忘れない。

で、子供が大人を殺すケースが都会ではあるわけだが、そこに殺意は無くてもそれをすることで、その人がどうなるかということを考えられるかという問題が出てくる。
子供だからそこまで考えないだろうとか、しょうがないとか、責任能力がどうとか。
責任ってのは、何かをすることに伴う結果や代償を予測したり、自分で想像したり、親から教えてもらって理解するもんだ。
子供だって親がちゃんと自分で考えるように育てれば、責任と言うことを理解できる。
自発的に考えるように育てれば、疑問が生まれたら誰かに聞くだろうし、それにちゃんと答えられる人が居れば子供は理解すると思う。

我侭が通るのは、その行為が許される範囲と世間や我侭を押し付けられる本人が許容できるものであって、それを超えるものは対価が伴うし、それによって起こった被害は要求した側に返って来る。

何がいいたいかと言うと、「心神耗弱状態」って鬱病とノイローゼと自律神経失調症経験者のオラから言わせて貰えば、よほど長い時間を通して追い詰められなければなり得ないってこと。
借金の返済を求められて、返せないから殺したとか、その人の無計画さと無責任が招いた結果だし、返せないのに借りるというのは故意であるから計画的とも言える。

逆に、金を貸して返してくれないからカッとなって殺したとかもあるだろうが、貸す側にも「返してもらえないかもしれない」という前提を用意しておく必要がある。
貸したら返してもらえ無いかも知れない相手に「20万貸して」と言われたら、「20万は無いけど5万なら貸す」というパターンだ。

まぁ、これはウチのねーちゃんのことだが、5万円貸してと言われ、くれてやるつもりで5万円渡した。
返って来ればラッキーと思えばいい。あとは精神的な貸しである。なんかあったときに貸しがあるから強く出ることは無い。まぁ、うちの家族はそんなことで揉めることなんて無いから、貸すというよりは貸すという建前で上げるという感じ。
それでも忘れた頃に5万円を返してきたのだが、3万貰って、2万をくれてやった。
それでいいと思う。いつかオラが死ぬほど困ってる時に助けてくれるだろうから。
とはいっても借金が死ぬほど嫌いなオラが借金で困ることは100%有り得ないのだが。

世の中には金のトラブルで貸した人が借りた人に殺されるケースもあるわけだ。
だったら、最初からくれてもダメージが無い範囲で上げればいい。
余裕がある時、もしも満額返しに来たら捨てたはずの金が戻ってきたくらいに思っておけばいい。
独りもんだからな。子供が居る姉と違って食わなくても死なない分だけ食費で工面する方法はある。

今月から給料が満額貰えたのだが、ビンボーに慣れてしまって給料の7割が手付かず。
面白いから貯金してみようかと企んでいるわけだ。ある程度溜まったら、それで楽しいと思うことに投資するか、新しいTVやPCを買うと言う手もある。
不便はあっても、不都合が無いという生活に慣れれば心に余裕ができる。
金は幾ら有っても困らないけど、金って人間が変わってしまうくらい恐ろしいものでもある。
人が人を殺すという事には金が絡むことが多いよね。

今日のニュースで資産家の夫婦が殺された事件の続報があったけど、お金を持ちすぎて近所と疎遠になり、お金を使い切らずに死んでしまうというのも哀れだよな。
お金って溜めたら面白いだろうけど、使い切れないほど持つものではいと思うのだ。
世の中がこんなだからさ、お金持ちの人が日本銀行券を放出してくれたら少しは世の中も明るくなるんじゃないのかな。

まぁ、民主党には期待しているよ。
こんな世の中を作った自民党がNOを突きつけられて、期待感はあるけど、始まったばかりであまり期待しすぎても駄目だしね。期待ハズレだったときのがっかり感なんて味わいたくは無い。

事件ひとつとっても色々と世の中のことを考えることはできると思った夕飯後だ。

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