個人研究はWikipediaでは認められない
専門家が居ないので個人研究も認められないという事実もあるのだ。
だいぶ前に言われたことではあるが。
でもってオラが言いたいことは単純明快。
特定の現象に基づいてそれが理に適っていて、検証の価値があると判断されたものって「一説として有り得る」という見方もある。
例としては壮大なスケールになるが、宇宙に関しては人類はまだまだ全容を把握していないし、説そのものをとりあえず「あるかも」と仮定して、それを証明しようとするのが一般的だ。
でも、身近な植物ですら研究者が居ないからと無下に排除してしまうのでは、その仮説を残すこと無く無かったこと(差し戻し)にするわけで、検証の予知もない。そんなのかなり乱暴な話である。
オラが一般的ではないカテゴリに於いて結構な観察結果、実証実験、作業効率向上、性能の向上、効率の最大化に持論があるのはここを大昔から見てる人は知っていると思うし、事実、それでなにかヒントを得て役に立ってることも少なくない。
オラはネットから得た情報を非常に有り難いものとして参考にしている。でもってオラの専門の範囲ではオラはネットに情報を上げて、間接的にネットという情報の倉庫に恩送りをしているのも事実だ。無論、アマチュア的意見としての思いつきも含めて実用性のあるものも生み出している。
その実績は知っているひとだけ知っていれば良いと思う。別にオラが好きでやってる事なので、それに対するお礼を強制するつもりもない。自慰行為と言われようとも、情報というものは多く存在していて、その中から自分の欲しい情報を得るためのヒントである。多ければ多いほどにそれは答えを絞るには役立つのだ。たとえ間違っていても、逆のヒントを得ることにも繋がる。
考えるというのはそういうことだ。考えるって面白いよなぁ。
結局のところ、嘘を嘘と見抜く。間違いを間違いだと立証する。仮説は正解であるかもと検証することに意味がある。
感じ方なんぞ、その本人にしか分からないことであって、人に依っては賛同できても、人に依っては承諾しかねるものもあるのは当たり前。みんなが同じなら逆に気持ち悪い。オラはこんな性格だからなぁ。意見がぶつかっても人の話は聞くほうだし、都度都度途中で話を遮るアホには関わらない性格だ。
で、個人研究だけど。
いくつかの某サイトもここでは濁すが今のところ情報の質や量では日本一ではある。
正確性を保証するものではない。でも概ね合ってる。わかり難いものを比較的分かりやすくしたつもりである。それで助かってる人も居るし、気づけば日本で一番詳しいサイトとして評価はされている。
今後も幾つか作ろうという気にはなっているし、何かに気付いたらちょこちょこと作ろうとニヤニヤしているのも事実だ。ただ、誰が作ったというだけで評価が分かれるのだけは好かないので、作者不明にしとくのも面白いかなとかまたニヤニヤしている。
要するに、専門家なんて肩書が無ければ自由がない世界ってつまらないでしょ?って話。
専門家って言っても「自称」から「権威」までいっぱいあるわけだし、大した脳味噌が無くても専門職に居るだけで専門家として食っていける事実もあるでしょ。
江戸時代だっけ?。職業の自由がない時代に唯一、「医者だけが自由になれる職業」ってのがあって、本当の医者から自称の医者まで居たという話。アレは最近見たアニメで知った訳だが、それってまさに今でもあるよねって思ったよ。
一体、専門家って何だろうね?。趣味で極めたものが本職を上回るって結構当たり前に存在している訳だけど。少なくともISDNという低速回線からADSLという高速回線に代わりつつネットが普及し始めた頃からインターネットに巣食ってるオラとしては情報を発信し続けている訳で。良くも悪くも仮説が本当になったこともある。
「それでメシを食ってるから専門家」と「趣味はアマチュアなので却下」ってのは「Lv.1の専門家」と「Lv.99の趣味研究」を比べてるかも知れないってことに置き換えられる訳だ。
このネットの時代に、プロもアマも居ないと思わない時点で、プロ・アマを肩書だけで比較すべきじゃないとか思ってるのは間違いだろうか?。
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