「絶対はない」と「自信のない人は言う」のだけれど、「意気込みは必用」だと思う。その意気込みが寝たきりに成らないための行動を起こして、「ある朝、寿命でポックリ死んでた」という「生涯現役」を目指すのだと思う。
自分が老後に足腰立たなくなって布団に寝たきりに成ったとしよう。で、それどうすんの?って話。介護して貰うにしても金は要る。でもそんな金はないし、下の世話まで他人にして貰うのはオラ的には死んでも嫌なんだけど。自分もしたくないし、自分がされたくもない。人が嫌がることを人にさせるべきではない。あくまでもオラ基準。金があって羞恥心がなければどうぞ、人任せにしてください。オラは嫌だ。
世の中の大半の人は「いま自分がまともに動けている事を当たり前だと思っている」というのがオラ的には「動けるのが当たり前だから自覚がない」と言い切る。で、四肢のどれか1本。または2本が動かなくなったとしよう。それで起き上がれるか?ということ。五体満足のいま、起き上がるのは誰でも出来るだろう。それが当たり前だから気付かないのだ。
それに五体満足でも起き上がるのに「どっこいしょ」と言ってる人。自分の体を支える骨格と筋力が足りてない自覚があるか。オラは脚1本で立てるように時々確認しているぞ。
もしも仮に片足が麻痺してまともに歩けなくなったとしよう。いまから何が出来るの?という事を考えたことがあるのか。多分無いな。失って初めて気づく人が大半だろう。
世の中は面倒くさいと思うことが多い。その面倒くさいは「面倒くさく無きゃいいんでしょ?」という言葉で相殺できる。要するに楽をするために頑張れば良いだけ。どうせなら楽しめば良い。楽しいことは面倒でもなんでも無い。
楽もしたいし寝たきりに成りたくないというのは単なる自堕落なわけで。こういう人は「絶対はない」と逃げ道を自分自身に作ってる典型である。ま、母熊のことなんだけどね。
ホテル・旅館への2次避難、全体の2割程度…「寝たきりの母動かせない」「自分たちだけ申し訳ない」とためらう
今はほら、能登半島地震の被災者の寝たきり避難者のニュースで考えさせられた訳よ。自宅ならまだしも、その自宅が倒壊してしまえばその場で即死。
生き残っても施設に入る金もない。であれば今の肉体がまともに動かせるなら、死ぬまでまともに動ける身体を得ようって思わないのかねぇって話。
いつも他人事。いつか自分も。それはしょうがない。だからどうしようもない。
多分ね、これすらも他人事。震災が起きれば同じことを繰り返している。今の被災者は熊本地震を他人事と見ていて、熊本地震の被災者は東日本大震災を他人事として見ていて、東日本大震災の被災者は阪神淡路大震災や奥尻沖地震を忘れてるって話。
阪神淡路大震災や東日本大震災に比べたら被害はどれも限定的で熊本も能登も激甚災害としては弱いほうだ。でも確実に同様の案件は発生する。その時に後悔するかどうかは、今の自分がどう在るべきか常に他人事ではなく自分ならどうするか。自分ならどう備えるかを考えなければ成らない。
いつか自分事。自分はそうならない。その為に今を維持する。やらない理由は無い。
あと、ついでに言えば、中国とかロシアとか北朝鮮とかの腐れ外道連合が攻めてきたら逃げ惑う市民に成り下がるのか、一丸となって祖国防衛にため自衛隊に協力できるのかって話。昨日のニュースでも予備自衛官の年齢引き上げがあったでしょ。オラはギリギリアウトなんでどうしようもないんだけどね。ただ、現実に戦争に巻き込まれてしまったら、多分、避難民には絶対に成らない。必ず支援する側に立つ。
自分の肉体と行動力を老衰で死ぬまで維持する。自分を守るために暴漢や外敵をぶちのめす。戦争が起きたらオラのスキルは多方面でマルチ過ぎるので幾らでも仕事はある。
この目標って実現が簡単過ぎるのでできない理由は無いんだよね。
面倒なことを押し付けられまくった経験上、オラにとっての面倒事は「しょうがないからやる」と「条件付きでやる」と、「オラに任せろキャッホーい!」の3つしか無い。