広島で豪雨災害が発生して花崗岩が風化した真砂土が、住宅地で大規模地滑りを起こした事案を覚えている。広島で地滑りとか聞くと、またかと思わざるをえない。
で、場所なのだが、このように住宅地に隣接する急斜面をGoogleアースで見ると分かりやすい。
周囲を山に囲まれた川沿いの谷間。斜面は急で災害発生予想地点は見ての通りの法面(のりめん)で補強されている。
これが実は非常に怖い。このコンクリの法面。頑強に見えて非常に危うい。
裏がスカスカで水が溜まり、いきなり崩壊してドバーーーーーー!!!って押し流される危険がある。
実は、地元で災害後の被害現場を生で見たことがある。
オラが大昔に下湯ダムでタヌキの湯を作って遊んでたころ、温泉にまでは達しなかったが、川向かいの斜面がコンクリ吹付けの法面で、それが起きたのだ。幸いに発生時に仲間の誰もそこに居なかったが、毎年、土砂で埋まってしまった川沿いの茂みでキノコや山菜を採ってたので、あれを見て怖くなったね。
それ以来、法面恐怖症というか、疑って掛かるようになったのだ。法面はいつ崩壊しても不思議はないものだと。
所詮は人間ごときが自然の摂理に敵う訳もない。自然とはなるようになるものだ。それを人間が押さえつけようとしても防げるはずもない。傾斜30度以上の斜面で、コンクリ吹付けの法面が数百メートル以内にある家はいますぐ引っ越すべし。
特に、このような地形は危うい。
ここ数年の間によく聞くようになった線状降水帯。少し前までゲリラ豪雨と言われてた現象よりも厄介で、線状に伸びたゲリラ豪雨が同じ場所を集中的に通過することで大量の雨を降らせ、全てを押し流してしまう。
無駄な植林により保水効果の無くなった人工林は大量の水を保持できずに川や海に向かって一気に流れる。
慣れは恐怖を薄める。そして、見慣れた風景はそれが当たり前だと思い込む。
そもそも、ここに家を持つ人はそのような危険を感じないのだろうか。同様の地形で地滑りを起こすことは多い。先日の鶴岡市西目で昨年12月31日未明に発生した現場でも、普通に見れば危ういと思われる赤土の急斜面が崩れた。
オラは山形県くらいなら移動時間4~5時間の近所とみなしているので通ったことがある。当然、通っただけなので観察などはしていない。ああ、あそこか。という程度の認識だ。
少なくともオラの庭でもある津軽エリアには同様に多くの危険箇所がある。去年は青森も甚大な被害を出した。
大雨に依る集落や鉄道の損壊現場も含まれるが、むしろ、それ以外の場所でも通る度に怖いと思う箇所が多い。今は何とも無いけど、いづれは崩落するであろう箇所というものは少なくない。
こうやってニュースになっているにも関わらず、あっさりと聞き流しているのか、長年住んでいて今までは何とも無かったから無関係だと思いこんでいるのか知らないけど、慣れとは恐ろしいもので、見慣れているとそれは日常であり、それには怖いという要素を感じなくなるのだろう。
それが最も危険な感覚であることは、実際に被害者に成らないと思い知らないのだとすれば、やはり行政は何か起こる度に調査をするのではなく、危険箇所には電柱や看板などに予想される災害の種類や規模を明示しておくことで責任を回避すべきだと思う。
だって、危険を知っていて引っ越さないのは住んでいる本人の責任でもあるから。後からアレコレ行政に責任を押し付けたがる思考停止の人から責められる要素は排除しておいたほうが良い。
オラの基本的な災害への考え方は常に自己責任が主体で不可抗力は少ない。
自分で調べて、理解して、同様のケースも調べ、多くの状況と結果から推測される被害の種類や規模から、自分の命を守る為の行動が事前に可能か、それとも不可能(不可抗力)かを想定する。災害や事件でも全く考えは同じで、それに遭遇した時に取るべき行動を事前に考えておくことで即断即決できるようにする。
人間は考える脳味噌を持っているのだから、専門家じゃないから難しくてわからないと諦めない。
命に関わる事案に関しては特に予めどうするべきが最善なのかを決めておく。事案発生直後には迷わない。即時行動する。1分1秒が生死を分ける。
オラの学力は決して高くない。でも、オラが色々と見て、分析して、理解して、その結果考えられるケースごとに対処を事前に決めておくという思考を行なうのは、これまでの経験で、あの時こうしていれば良かったと後悔するシーンが結構ある。
ここで二度と自分が不利な立場に成らないようにするべきは、よく考えれば実に簡単なことだった訳で、法律で相手の過失割合を付けることも可能だったとかあるのだ。そして想定していなかった事案に対してのその場のするべき事を全くシミュレーションしていなかったこと。
ああそうか、物を知らないと損をするんだな・・・
その損が財布事情だったり、自分の立場だったり、加害者側の立場を徹底的に貶める論破であったり、実は法律上の解釈で、相手にも過失があったことを知らずに100:0になったとかあるんだよね。
自然災害は行政の指示を待たず、特に自分で判断して自分で行動を開始する方が良い。
それが自然災害とかになると、注意報や警報、避難指示。そしてその結果どのくらいの被害があって、その後にその地域の人がどれだけ生活に困窮して、その時に最も必要だったのは何であるかなどを調べたり考えてみた。そして、実際に避難指示が出ていた。
または行政からの避難指示が遅れた結果、そこの住民が結果的に亡くなったりした場合、結局は行政の指示を待つまでもなく、自分で考えて、自分で決定して、自分で何とかしていれば少なくとも財産を持ち出して逃げられる時間があったのでは?と思うような事も多い。
そして、行政が指示をしなかったから助からなかったとか、指示が遅れて被害が増大したというケースもあるけど、では、昔の人はどうしていたのかと考える。
当然、今ほど文明が発達していないし、防災に関する技術も定番の行動もあまり無い。でも、昔の人は周りをよく見て自分たち。または家族や近所の人達が考えを出し合って自発的に行動していたと思う。
そのインターネットもSNSも無い時代にご近所の◯◯さんが言うなら間違いないとかいうレベルの話である。
つまり、考えて、想定して、こうなるかもしれないから早めに逃げようとかそいう話をアナログでやってたと思う。当然、そういう時代であれば、このくらいの雨が降れば川が増水して浸水するかもしれないとか、裏山が崩れるかもしれないとか、普段から周囲をよく見ていたと思う。
推そらくは現代ではそれらを行政に丸投げして自分たちは思考放棄をしているのでは無いのか。そう思う。人から言われてどうこうするっていうのは自分の命を他人の判断に預けているってことでしょ。地区の長は地区を納める能力のあるひとが成るもので、災害に関する研究者でも何でも無い。
人にはできること、できない事がある。
でも、人に依って多かったり少なかったり。何でもできたり、何をやらせても駄目な人も居る。
で、それをできるようにするのは自分であって誰かではない。所詮は本人が興味のない物など何も身に付かない。
母が余りにも自分の興味以外に目を向けず、進歩のない人間なので良い反面教師である。ああ、なるほどと。
つまり、世間一般にはオラの興味があるカテゴリって苦手なんだなと。母を世間の基準と知れば、自分が他人の不得手なカテゴリを可能な限り集中的に蓄積すれば良い。
オラの得意分野は他人が不得手とするところで良い。ある意味でへそ曲がりであるも、オラ自身が一人勝ちってのは面白い。
オラの常識は世間の非常識であっても誰も困らないし、一応は常識人なので、誰にも迷惑を掛けるつもりもない。
なので今後とも色々と好き勝手に興味を持って色んなカテゴリに首を突っ込もうかと。さーて、今年はどのカテゴリに手を付けようか。