子どもだけで公園遊びも「虐待」に。埼玉県議会の条例案が委員会で可決。「順番違う」と子育て当事者
うーん、オラが子供の頃は遊び場なんて近所の林の中、工事現場の資材置き場、原木置き場、川だったり、空き地(ほぼ原野)だったり、児童公園だったり。
今の子供にしたらデンジャラスなんだろうね。そんなデンジャラスも安全に遊ぶために子供は考えて身体能力を向上させ、如何に安全に遊ぶか(同義語:親に怒られずに遊ぶか)ということを考える。
オラがまだヤングでナウな時代にはOFF会で仲間が子供も連れてくるのだが、人何十倍も野外の遊びに特化してるオラは、その子らに昔の子供の遊びを教えるわけだ。何もないところから周りにあるものを利用して道具を作る。それが当たり前の世代。子どもたちは未知の領域に触れたかのように面白がってた。
とは言っても、推そらくはうちの親父の世代の遊びを教えられたものだから、正確には昭和初期(或いは江戸時代より前)~昭和中期では当たり前の遊びの延長。つまりオラがガキん時までの遊びの方法だ。
これらは子どもたちの想像力や創造力を拡張するし、手先が器用になる。安全に遊ぶ為に怪我をしない体のコントロール(バランス感覚や危険な場所での手足の使い方)を体験する。そして子供の頃に獲得したそれらは一生物であり、大人になってからは感覚的に理解することが難しくなる。簡単に言えばこれらは脳の鮮度が良いときに習得しなければ、凝り固まった脳みそでは上手く実行できないのだ。
確かに近年の子らのコミュニティーはリアルでは狭く、ネットでは広いのだろう。時代の流れとして在り来りだ。リアルでの活動が減ってスマホやPC。ゲーム機の画面上で友達を作るのなんて普通なのだろうね。その創世記すら眺めてきたオラとしてはそれも解る。でも、オラは小学校3年くらいには既にラジオなどを作ってたし、家電も直してた変な子だったわけで、現代はハードウェアを理解するよりもソフトウェアの扱い方を学ぶ方がメインだ。今は自作PCなんて自己満足の範囲で車のチューンに近い。それこそ既製品で十分なのにわざわざやる的な趣味みたいなもんだ。
人同士の付き合いには面倒事が発生することなんて当たり前だから、直ぐに友だちになって、気に入らなければ切るような非対面型の世の中だ。無論、映像に依るTV電話的アプリも普通にあるので、擬似的に対面しているが実は精神面でリアルよりは気楽である。
そうした人と人との関係ってのが希薄なってくると、益々人同士の付き合いは希薄になる。間にデジタルが入らないとアナログで上手く会話ができないんじゃないかと。
近年は子供に声をかけるだけで不審者認定で事案の発生が速報で出る。何とも嘆かわしやだ。結局は子供は年の離れた友達を作ることが難しくなるのだろう。で、大人と話す機会のない子供は、同世代としか話を合わせられない子がどんどん増える訳だ。それで良いの?。
では、どうするか。
人の面倒を見るのは面白いし、それ自体が面倒をみる側も見られる側も成長になる。大人が子供に関われないのであれば、ちょっと年上のお兄さん、お姉さんと遊ぶしか無い。友達の兄姉とかね。年の離れたお兄さんお姉さんってのは昔は子供の面倒を見るのが普通だったし、知らない子にも親切だった。当然、うちらの時代では知らない大人が知らない子供を普通に叱る時代。そうやって知らない子供にも健全に育つように見守ってきたわけだ。
過去にも何度も書いてはいるが、オラは子供とお年寄りのはウケが良い。基本的に親切には親切で他の人に返す。恩送りというのは世の中をホッコリさせる良い仕組みだと思ってる。誰かに助けられたら、他の人が困っているときに助けると、その助けられた人は更に他の人にも親切になれる。単純な習慣である。
「やれる人が、やれる時に、やれる事をしよう!」
オープンソースコミュニティーの基本理念である。
誰かのために成ることと同時に、自分のスキルアップ(ステップアップ)に繋がる。これは「生産性が高い遊び」であると同時に、成長の機会である。要するに子供同士の互助会みたいなものを組織化すればよい。活動方式は自由だ。
地域貢献部とかクラブやサークルという名でも良い。学校行事で1日とか数日とか月イチとかそんな形だけのものじゃなくて、平日の放課後はそれが普通にできる場所だけ大人が作れば良い。子供にもメリットはある。人に教える。人に教わるというのは何も大人が子供に教えるだけではなく、年下から年上が教わることもあるし、経験を経て、人に上手く教えるという学校の一方通行な勉強では身につかないスキルも習得できる。
社会に出てからは人にモノを教えるのは普通にあるし、人にモノを聞くにも聞きたいことが何であるのかを相手に明確に提示するというスキルだって身につく。
オラが毎日イラっとしている事の一つに、「国語力の低さ」があるのはそれだ。自分の中では応答は完結しているのだが、アウトプットがデタラメで、相手のインプットがバグるってやつ。自分ではちゃんと言えていると誤認しているのだが、聞いてるオラにしてみれば支離滅裂である。つまり言葉を整理して発することができない大人だらけである。大人でそうなのだから、その人達の子供も推して知るべしなのではないか。
鳥やその辺の地面を歩いてる動物でさえ日本語を話さなくてもオラには正しく意志を伝えられるのに、人間は言葉を操れる生き物なのに、言葉の使い方が酷すぎるわけだ。要するに日本語の構文がクソなわけ。子供の頃に本の虫だったオラにしてみれば、コイツら読書してないんだなと思う事が多い。別に読書って言っても漫画でもラノベでも良いんだよ。
消費の方法にも色々とある。ゲームで遊んでゲームを作ろうと考える人。ゲームで遊んでまた違うゲームを消費するだけの人。別にゲームを作れなくてもゲームシステムやストーリーを作るのでも生産行為に当たるがどうにも世の中は消費者が増えすぎて未来が心配だ。
勉強にも色々とあるけど、学校の勉強の基礎は必要最低限の算数や数学の公式同様に、国語にも公式のようなものがある単語の並べ方だ。やはり会話口調にしか慣れていない人は大人になっても「自分では言ってるつもり」で、「倒置法の繰り返しで支離滅裂」になってるのだ。しかもそれに気付いていない人が多くてビックリする。
学校の勉強がてら、そういう会話の練習をしていれば、皆の前で発表するとかそんな機会にはスラスラと「理路整然とした文章が箇条書きで出てくる」のだが、普段やってない人の話し方は「電話中のメモよりも酷い要点が無い文章」になってしまう。
これは勉強という遊びもあるのだよって意味。実際に外で遊ぶのも、死なないための勉強であるし、室内で勉強して遊ぶのも大人になって恥をかかないための勉強でもある。
勉強はつまらないよね。オラもそう思うんだ。でも、勉強が面白くないのは勉強する意味を納得させずにただただ勉強しなさいしか言えない大人でもあるんだよねぇ。
大人になってからの勉強ってのもあるよ。大人になったら勉強しなくて良いと思ってる子供には残念でした~と言おう。むしろ、学校よりも長い人生の中での自分磨きで自主的に勉強しなきゃならない。仮に自分に子供ができたら尚更、子供に恥ずかしくない何でも知ってて、何でも指標を与えられ、解らないことを調べる方法を教えられる親ってのは大事だね。
今回の埼玉の条例ってのはハッキリ言って県としては何もしない、代わりに何かを提示する訳でもない単なる親への丸投げであるし、こんな馬鹿な条例を通した議会もまた思考が浅い。条例に挙げるのであれば、どうしたら条例を遂行できるのかをセットで示さないとね。或いは場所の提供なり、仕組みなり、誰かを雇うなりね。
埼玉のこの条例は、投げっぱなしジャーマンだよ。