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2022年11月9日水曜日

常識と非常識

常識は主観であり、非常識も主観である。

常識は足りないと非常識になり、非常識には良し悪しがある。

常識は受け入れた知識量であり、非常識は常識を覆すこと。

その人にとってごく当たり前なことが常識であり、その人にとって重要でない事が非常識である。

常識の広さと多さと深さが自分を守り、常識の少なさで不利益を受ける事がある。悪い非常識は軽蔑されるが、良い非常識は奇特である。

常識から逸脱した状況が非常識であるが、非常識を知る事で常識に置き換わる事がある。非常識な常識人は善であり、常識が足りない非常識は悪である。

非常識を柔軟に常識に切り替える事が困難な人は思考停止に陥る。非常識をありのままを受け入れられる人が状況を進めて打破できる。

眼の前で起こっている非常識な状況は未知から既知となり記録や状況の把握により常識となる。それを一瞬で受け入れられる人は次の行動に移れる。受け入れられない人は為すが儘に状況に押し流される。現実逃避は心を守るが身を守れない。

仮に自分の生命が脅かされる状況下で、それが常識だと判断する人は、瞬時に自己防衛に徹する事ができるだろう。眼の前で起こっている状況を受け入れられない人は、何もできないか誤った選択を取るだろう。

起こり得る事は常に起こる訳で、起こり得ないことも絶対に起こらないとも言い切れない。起こる事が常識と思うなら想定外という言葉は無知の証明になる。

極端な例えで、科学では証明されていないし、伝承や神話の世界の話だって事実化してしまえば日常になって常識化する。変化に対応できる人は生き残り、変化を受け入れられない人は、認識の乖離から精神を病むかも知れない。

身近な所ではお隣のヤヴァイ国。彼らには常識が無いので、常識が無いという事が常識の人なら警戒するだろう。でも彼らが非常識なことをする訳が無いと思っていると、非常識な目に遭ったら自分では無く自分にそれを教えてくれなかった人を恨むのだろうか。それとも誰かに誤った情報を擦り込まれたか。

情報とは常にオープンとは限らないが、少なくともネットには一般常識を遥かに上回る常識の種が蒔かれている。それを育てるのも自分の選択。興味が無いと面倒臭がって無視するのも自分の選択。

一般的に非常識とされる行動には「普通なら敢えてやらない事」が含まれるが、敢えて非常識な行動をする事で能力の証明ができる。結果として偉業となるか愚行となるかは本人次第。

幸運は確率に左右されるが、常識的な行動と非常識な行動で結果をある程度操作できる。悪運も同じである。

全く同じ言葉でも、行為次第で褒め言葉にも罵倒にもなる。常識と非常識は使いようであるも、良い意味で使う非常識は常識を凌駕する。

敢えて馬鹿な行為をする事でハイスペックを証明したり、常識的行動でロースペック認定されることもある。

普通はできない事をやって退ければ非常識だけど凄いと思われる。可能ならすべき事を常識ではやらないからと決めつけた結果、状況が悪化することもある。

その人に依っての非常識と常識は時として逆転する事もある。

人という枠組みのスペックでは無理な事も、人の限界を捨てる事で可能にしてしまえる。一般にそれは周りの目を気にしての事だが、常識を捨て去れば意外と簡単だったりする。

周りの目を気にする余り、自分の常識にリミッターを掛けてしまうと頭打ちに。天井知らずを前提とすれば常識のリミッターに制限は無くなる。

思い込みも力になれば、枷にもなる。自分の常識の線引を何時までに何処に決めるか。極めれば時に非常識は常識を超越する。



さて、これを自分の常識と非常識に当て嵌めた場合、諦めるか、踏み出すか葛藤する事になるだろう。周りの人と自分は同じでありたいと思えば枷。周りとは違うんだと思えば追い風になる。

良い意味での非常識が賞賛なら、悪い意味での非常識は軽蔑となる。凡人が凡人なのは常識を履き違えたとき。超人が超人なのは非常識を可能としたとき。

天才、秀才、凡人、馬鹿、大馬鹿

天才だって侮辱に使う事ができる。
大馬鹿を称賛として使う事ができる。
でも、凡人はどこまで行っても凡人のまま。

非常識は楽しいし、常識はつまらない。

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