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2024年5月1日水曜日

なぜ人は石ころに価値を感じるのか

 人に依るだろうけど、オラはこの石ころの生い立ちを想像することで、その悠久の時を経て偶然にオラの手にある現在までを想像するのが面白い。

 そしてこの石ころの模様、構造からどのようにして形成されたのか物理的に予想することも楽しい。

 水晶や瑪瑙などは結晶が徐々に成長することによってその姿を得る。他の鉱物には溶岩の中で様々な要素(熱(温度変化)、圧力(加圧・減圧)、時間経過(一瞬または長い時))によって生まれてくる。水に溶けた成分が成長するのか、高温高圧下で蒸気の状態で蒸着したのか。ドロドロに溶けたものが冷えて固まったのか。滲み出てきたものが噴出して固まったのか。沈殿物が押し固められたのか。埋まったものに周囲の成分が徐々に染み込んで石化したのか・・・様々な誕生の経緯があり、想像できるものもあれば、想像できない不可思議な混ざり方をしたものまで見ていて飽きない。

 舎利石の形成過程に関しては舎利石の専門サイトがあるので、そこに出で立ちが書かれているように、七里長浜の多種多様な見た目や組成の石ころにはそれぞれのドラマがある。そしてその生まれの偶然性にも興味がある。特定の地域でしか採れない珍しい石も魅力のひとつだろう。

 人間の寿命なんぞ長くて80~100年だ。でも、これら石ころの年齢は数十万年~数十億年。自分らより遥かに長い時間を存在し続けてきた。そう考えると、彼ら石ころとて知的生命体にまで進化した人類が余暇や趣向によって収集されるとは思っても見ないだろうし、星の数ほどの石ころの中から人間に拾われる石ころなんぞ、これもまた天文学的分母を持つごく僅かな確率だ。

 無論、毎日のように波は満ち引きを繰り返し、拾われる石もあれば削れに削れまくって消滅するものもある。その間に岩脈が侵食を受けては生まれ出てまた海岸に流れ着く。その繰り返しの中の、またごく僅かな確率で人間に拾われている訳だ。

 きっと拾われずに摩耗して誰の眼にも留まらずに消える石ころも無数にある。若しくは海岸線の成長や後退により地中深く、或いは海底に埋没した石も無数にあるだろう。実に惜しい。

 オラは模様や色合いや複雑に複数の鉱物が混じり合ったり、隙間に水晶ジオードが見える石ころ。色や硬さや性質の異なる好物が幾層にも層になったもの。化石化したものなども好きだし、乾いている時と濡れている時とでは見た目ががらりと変わるものが好きだ。

 拾う石ころは比重が重いほど良い。錦石の比重は瑪瑙や水晶と同じ2.7(水の2.7倍)ほどで、大きさの割にずっしりと手に持った感じがする。七里長浜の錦石は珪酸化物の割合が90%以上という不純物以外は二酸化ケイ素(要するにガラス、水晶、瑪瑙や玉髄など)の塊だ。だから固くて高密度で密度が均一なものほど海岸で波に揉まれたものは表面がツルツルのスベスベで純度が高いほど光沢を持ちやすい。

 見た目は全然透明じゃないのにその成分の大半が二酸化ケイ素。これもまた錦石がずっしり重くて磨けば光る特徴のひとつだろう。

 石の見た目や状態というのは個人の好みの問題なので、人間が手を加えてピカピカに磨き上げるもよし。自然のままの状態を眺めるのもよし。一時的に模様や色合いを強調させるために水を掛けるのもよし。手に握って触り心地やその重みを感じるのもよし。

 その見た目が珍しいほど拾った本人には至福であり、個人の好みなので何が良いかはまた個人の評価次第。共感できたり、共感できなかったりもするだろう。でも、本人が楽しければそれで良いのもやはり石ころ拾いの楽しさであり、収拾して陳列するのもポケットに入れて持ち歩くも自由。

 別に興味がない人にとやかく言われる筋合いも無いし、オラが幼少の頃は年寄り臭いとか言われたこともあるけど「うっせーよ!余計なお世話だっつーの!」で良いと思う。

 ま、少なくとも競輪・競馬にパチンコ・パチスロよりは健康的な行動によって得られるものなので自然志向でアウトドア趣味であるのは確かだ。

 世界中の様々な石ころを集めるのは金が掛かりそうだが、少なくとも七里長浜でブラブラする程度じゃ交通費(マイカーなら燃料代)や宿泊費(日帰りとか車中泊ならゼロ)で済む。食事は家に居ても外出先でも食うので換算しない。安上がりで健康的な趣味と言える。

1 件のコメント:

  1. 「うっせーよ!」最高です。
    コチラのブログは私にとって永久保存版です。(''∇^d) ナイス☆!!です。

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