あおもりくまブログアクセスカウンター

2024年4月15日月曜日

見えるということ

何にしても見える(視覚)というのは眼球の性能とその見えているものを整理・補正・認識する脳の働きで外界を見ている訳で、共感覚があるものは他の聴覚・嗅覚・味覚・触覚が視覚に感覚が被っている状態とも言えるのかも。

厳密には違うが「嫌な匂いがする」とか、臭うはずもない嫌な予感が匂うという曖昧な感覚。

危険なものや何か嫌なものに本来あるはずのない色分けがされて見えるのも、実際の色覚とは違う現象。これらは多分、他の嗅覚や触覚(肌で感じる何か)が視覚情報に被っている状態かもね。

人間の眼ってのは元々の裸眼視力と、ピント調整機能、網膜の彩度や光度の鋭敏さにより入ってくる情報の量が人間に依って違う。その情報を脳が処理して、本人が必要とする情報をフィルタリングして必要な情報を選別して見ている状態。

この「本人が必要としている情報」ってのは、緊急事態では色情報を破棄してモノクロの世界がスローモーションになって見える思考加速が起きることもあれば、ほぼ暗くて見えない筈の明るさでも僅かな視覚情報をフォトレタッチの明るさ調整のように増幅して見ることによりノイズが入るもの最低限の輪郭やら何やらが画像が粗くなるものの辛うじて見えるようにしている状態でもある。

この感覚はその人が持つ視覚情報の取り扱い方法が多彩なほど様々なフィルタリングや他の五感との相互関係から付加情報を得て脳内で合成されて見えているとも言える。マジでこの感覚が分からない人には、「何言ってんのコイツ?」状態であるが、これはその人が育った環境や必要としてきた視覚情報の範囲によってオラが分からない感覚も含めて非常に多彩である。オラが見えている世界についてオラと同じようなフィルタや合成機能を持っている人には「そうそう、そんな感じかもね」かも知れないが、その機能を必要としてこなかった人には「どういう状態なのか想像もできない」ということでもある。

同時に、オラが持っていない「見え方」を持っている人の感覚については、オラには想像もできない見え方をしているのだと思う。

先日、オラには暗視(ナイトビジョン)があると言った。人間は赤外線や紫外線が見えないけど、見えて居るのかも知れないとも言える。単純に人に依って眼のISO(感度)が桁違いに良い人や、逆に桁違いに悪い人も居るのかも知れない訳で、そうなると、単純に「見える」という状態でさえも、ノーマルな視覚情報には雲泥の差が出る訳だ。

凝視の状態。分析の状態。検索の状態。危険感知の状態。ただ何となく見えている状態。逆に目が疲れるから視覚情報を故意に低解像度化して他に脳のタスク割をする感覚ってのもオラには当たり前のようにできる。

夜間のドライブに関しては暗いのでライトの見えている範囲と、進行方向の闇だけ。路外は道路からせいぜい1~2以内を低解像度で。最大は人を轢かないように進路上の動体の検索や路上落下物の有無。道に沿って走るための道路形状の把握。解像度は落とす。感度は上げるくらいだ。常に凝視して走ってたら数時間連続運転なんて目が疲れるだけだ。

で、ナイトビジョンに関してだが、やはり普通には見えていないものが見えている訳だが、これが本当に見えているのか、脳内で合成された情報が正しくないのか、それとも必要があると脳が(本能が)判断しているのか分からないが、意識すると見ているものがある。

他人の見えているものを他の人に説明するのは難しいと言われているように、せいぜいイラストか何かで説明するしか無いのだが、それは動いているようにも見えている訳で、実際は動いていないのかも知れない。実際にそこに在るのかも分からない。それとも見える人には見えるし、見えない人には全く見えていないようなモノであるかも知れないモノという解釈もある。

オラの育った環境がそれを意識的に必要であるという認識で使えるように成ったフィルターであるのは間違いないのだが、いつも使えるフィルタという訳でもない。オラの疲労度。或いは最大に活性している状態によってフィルタがON/OFFになるのかも分からない。

ただ、見ようと思って見ている訳でもなく、気づいたら見えているということが普通だ。

ま、人間って存在を100%分析完了することはこの先何百年経っても無いのだろうし、そもそも人間という存在そのものはその辺の生き物と一緒くたにされるほど脳の機能が単純ではない。人間だから見えているということも有り得る。

逆に、動物には見えていて人間が失ったはず視覚の機能を持つ人間が居るのかもしれない。幼少期に必要があってそれを使えば機能し、幼少期にその視覚が不要な環境で育てば一生ONに成らないということもあるわけだ。

単純に「見る」とか「見える」に関して、普通の人はどこまで意識して居るのかは知らない。オラの見るという行為が普通の人とは違うのだろうと思うけど、オラ以外にもこういった見るという行為に何かの特殊なスキル(フィルタ)を持っている人は居ないということは絶対に無い訳で、たまたまオラが見えているものが普通は見えないモノだとしても、オラ自身が見えている時点で、そういった見えているものはオラには現実として見えていると言えるのだろう。

ま、見るという行為に様々な意味を持たせるってのは意識しないと出来ないし、しようと思わなければフィルタなんぞ持てない。本当は誰でも見えている筈なのに、みんなは不要情報だとして見えているものを脳が認識しないってこともある訳だ。

そういう意味ではオラは得をしているし、他の普通の人は損をしているのかも知れない。

求めなければ得られず、存在を知らなければ気付けず、意識しなければ見えず、見えなければ存在を知れず。

それらに気付け無ければ、こういう考え方すらもしない。

関心がないと余計なものが見えないだけ楽かも知れないし、見え過ぎると情報過多で疲れるのかも知れない。

ま、どちらが良いのかは見える人であるオラが、見えない人の感性が解るはずもないというのだけは言えるんだけどね。

0 件のコメント:

コメントを投稿