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2023年4月5日水曜日

自分は関係ない。その結果「“ヘルメット努力義務”開始の日に33歳女性が自転車事故、3日後死亡」

 “ヘルメット努力義務”開始の日に自転車事故 重体の33歳女性死亡

自分は関係ないし、自分がそうなる筈はない。自転車で怪我をすることはあるだろうけど死ぬことはないだろう。

とか思ってたのだろうし、いま、こういう事になって肉体を失った本人が意識を持っているとしたら、どうしてこんな事にと思っているのだろうか。いづれにしても遅かったというか、たらればを語るには遅かった。

一般人の危険感受性は普通はこうなんだろうし、自転車に乗る多くの人はこういう考えなんだろうと思う。今回は完全に爺さんの車が100%悪いのだが、自転車も周囲に関心を持っていれば余裕で回避できるような事故だ。

たとえばヘルメットを被っていたとしても轢かれ方によってはヘルメットは無意味だろう。でも、体の損傷で一番避けるべきは脳と心臓、そして内蔵。これらは強い衝撃や圧力によって直接的に死に繋がる部位だ。腕や足、腰を複雑骨折しようとも、押しつぶされなければまだマシで、脳に至っては強い衝撃にも非常に弱い。

だから、ヘルメットで守る。実に単純明快で分かり切った事実であり、ヘルメットを被るのは誰のためでもない自分のため。自分で事故を起こさなくても自分が事故に巻き込まれることはあるだろう。周囲の人や車の動きから自分に影響があると判断できれば速度を調整したり、少し軌道を変えるだけで事故は回避できるかもしれない。

単純に目的地に行くために自転車を漕いでいるというなら、何も考えては居ないだろう。せいぜい疲れるなーとか、ペダル重いなーとか、あれ邪魔だなーとか、そんな感じ。

事故に巻き込まれると相手が悪ければ相手の保健で色々と手厚い補償をしてくれるだろう。自賠責しか入ってないクソを除いては。でも、死んでしまったら自分が居なくなって、それでおしまい。これからやろうと思ってた事もできなくなるし、今日の予定とか、今年の目標とか、将来の夢とかまるで無縁となってしまう。残された人は自分が一切関われない状態でただ残され、保険が降りればそのお金が遺族に渡る。そこでおしまい。

たかが数千円のヘルメット1つで人生は狂うのだと思う。ヘルメット着用の努力義務が始まったとか、4月1日からは自転車に乗る時はヘルメットを被ろうだとか、そういうのはあくまでも社会のルールの始まりであり、その前から自分の身を護ろうと思っている人は自主的に被っている。

自転車に乗ってる自分は交通弱者だから車が避けるべきだし、事故に遭っても相手の保険で長く入院してやって給付金でボロ儲けだぜ!とか思っているかどうかは知らない。そもそも自分にはどうでもいいことだ。

自分ができることは、相手が悪かろうが100%回避してやるってこと。保健は対人対物無制限に入っておけばとりあえず安心ってこと。自分自身が道交法を常識の範囲で守り、少しでもリスクを感じたら予測や予防の動作を運転に組み入れて、自分自身が絶対に加害者にも被害者にもならないと努力するだけ。自分が公道上にいる時は、自分以外の人や自転車やバイクも車もトラックもバスも野生動物でさえも自分のカーライフやリアルな生活を脅かす敵でしかない。

あとはそれぞれの自分以外の誰かが一人でも交通ルールを守れば、オラ自身が気をつけることが少なくなるってだけの話。だから、自分以外の人間が道交法を守らず、危険感受性が低く、自分勝手なことをしていてもオラは絶対に避ける。相手より1秒でも早く止まって、相手が停止している自分に接触しさえすれば、オラが道交法を守っている限り、相手の過失は100%だ。それしか考えていないし、ハッキリ言えば、誰が無神経な行為をしようとも、それで自滅しようとも、本人の自由意志なので、望み通りになりましたねとしか言いようがない。

誰かに言われたからヘルメットを被るとか、事故った時に危ないからヘルメットを被るだとか、長生きしたいからヘルメットを被ろうだとかは、本人が自分で必要だと自覚しない限り定着しない。どうせ、髪型が崩れるとか、暑いとか、邪魔とか、重いとか、自転車に着けておいたら盗まれるかも知れないし、持って歩くのは邪魔だから要らないとかそういうのは本人の考えで、本人が望んだことで、本人が決めたこと。法律で罰則がないんだから被らなくても違反ではないし、痛い思いをするのは本人。頭を打って意識不明になりたいのも本人。それで死んでしまっても望んだのは本人。今日も明日も今週も今年も今後の夢や人生が全て無意味になっても本人が決めたことなので尊重したい。

で、ヘルメットは誰の為のものなのか、ここで決めるのはそれぞれの人の自由意志で、道交法を守らなかった時に相手に怪我や物損を与えたら貴方のせいで、それで罰金を取られるのも貴方の行動の結果で、貴方がそうしたいからそうなったというだけの事でしか無い。

ヘルメットを被らない自由もある。ヘルメットを被るという自由もある。自分の命や今後の人生を守るためにヘルメットを被るという意思決定も自由だし、ヘルメットを被らないことで今日明日にもいきなり人生をゲームオーバーさせるのも自由意志だ。

オラはとにかく今後一切の事故を起こさないし、巻き込まれないし、相手の無謀で時間や労力や金銭を失うのは御免だし、回避した後にアホには遠慮なくアホだと言う。文句あるなら警察呼んで違反内容を警官の前で解説してやろう。

一応、そこまで道交法はほぼ頭に入っている。なーに、基本的なものは少ない。守ろうと思えば余裕だし、相手が普段からセーフっだと思っているが実はアウトなものも全部頭に入っている。法律を覚えるのは自分を守るため。ルールを守るのは自分の安全のため。つまらない違反で講習時間を伸ばしたり、免許の快気化回数を増やしたくないからゴールド免許を続けているだけ。相手の無謀を避けるのは相手の無謀に付き合って時間や財産を消費しないため。

だから、自転車乗りがヘルメットを被るのは自由だよ。

一応、こういった事になる訳だし、自由意志を尊重したい。

選ぶのは自分。

自分の人生は分岐だらけのアドベンチャーゲームみたいなものだ。セーブポイントもその機能も無いけどね。ヘルメットを被っていたらゲームオーバーは免れたかもしれない。あー、あの時にヘルメットを買っていれば。よーし、セーブポイントからやり直そう!とかできないし。まあ、死に戻り(タイムリープ能力)でもあるなら別だけどね。

ヘルメットを数千円出して買う。その費用も手間も惜しんで、やり直しもできない人生ゲームを終わりにするのは簡単。でも、ヘルメットを買って被って居れば、死ななかった自分の時間軸(世界線)があったかも知れない。でも、選ばなかった人が居たわけで、それはそれで誰かの教訓となることで人生に意味があったのかは知らないし、自分には関係のないことだ。

オラはオラ自身を守るために必要なことをするだけ。現状では余程の事故にでも遭わない限り、オラの肉体が損傷することは稀だ。同じ事故や行為でも、人に依っては死んだり、大怪我したり、軽症だったり、無傷で済むこともある。自分の肉体がどこまでの衝撃に耐えられるかは自分自身で試せば良い。脆弱ならヘルメットやプロテクターで護るでしょ。これはその一環でしかない。

これまでド派手なアクシデントに見舞われても、オラは子供の頃から事故による入院など一度もない。奇跡的にとも言えるし、そういったフィールドで遊んでいたということもあるし、幼稚園児が山の中で迷子にならなかったのも毎週山に連れられて行ってたから。足場の悪い場所をスイスイ歩けるのも、藪の中をスイスイ進めるのも、高い場所から飛び降りても平気なのはオラ自身の自由選択の結果。

時には救急箱の世話になる程度の傷も負うけど、わざわざ病院に行くまでもない。体表面のみの損傷による出血もあっという間に止まるし、打撃・打撲にも強い。中2の時に弘南バスに幅寄せされ巻き込まれて側溝に落ちた時も擦り傷だけ。左折巻き込みは乗用車にもやられたし、スピード出してきたバイクに跳ねられたこともある。これも中学だね。小学校の時も猛スピードで側溝に落ちたな。色々あるけど、入院するような怪我はないし、ほぼ軽症。

多分、トラックやダンプでも突っ込んきて押しつぶされるくらいしないとオラは死なないんじゃないのかな。日々鍛えて、体幹の筋肉が既にガッチガチだ。

でも、自転車に乗るとしたらヘルメットは被るだろう。色々とギミックを追加して。子供にもウケるんじゃないのかな。そうだね、映画のTRONみたいな感じで光らせることで子供は進んで買うだろうし、ドライバーから見ても無灯火のクソチャリも目立つ。蓄光塗料や蛍光テープでもイケる。

多くの人がヘルメットを被らないとする。オラはその他大勢が大嫌いだから、きっと大多数の逆をする。

そして仮に事故にあって、普通はヘルメットがあっても死ぬような状況でもピンピンしているだろう。そこでこの台詞を是非とも披露したいのだ。

「ヘルメットが無ければ即死だった」(シャア・アズナブル)

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