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2024年3月28日木曜日

識字率の記事を読んで思った。文章の流れを書き出す文章力も重要な要素。

 「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想か 見過ごされてきた「形式卒業者」の存在、注目集める夜間中学

 TVでもニュースを見れば字幕とか出るよね。出なければ今って文字放送ってあるの?。TV見ないんで分からないけど。それを見れば読んでる内容と漢字の読みは判るよね。それも漢字を覚える行為にはなる。それとも馬鹿だからバラエティー番組ばかり観て頭の悪い芸人の吐き出す汚れた話し言葉で脳を汚染しているのかね?。

 いい大人が文章を書けないって致命的だと思うんだけど、周りの連中を見ても実は結構多いと気づく。始末書の意味がわからないのか、発生状況、自分の行動、今後の注意するべきことが書けない。論理的思考も無いというか長い文章を書けない人というのはゴロゴロ居るのだ。まるで小学生。いや、小学生に悪いな。見た目は大人で文章力に限っても就学前の幼児だ。

 「漢字読めるけど書けない」ってのは普通に高校を出た人でも居ると思う。後は社会人になってからどれだけ活字に触れてきたか。自分の考えを人に伝える手段としての文章力ってのも、オラはその辺に居る有象無象の平均以上の能力はある。ネットのニュースを見ていても伝えたいことは最低限だけ整っている。これも勉強だ。紙の新聞を取ってることが偉いのではない。より多くの他人の文章をよく読むことだ。

 場合に依ってはオラでも普通に読める文章を次長クラスが読み間違えたり、読み方を分からなくて詰まるシーンを何度も見ている。ふーん、有名大学も大したこと無いとか思ってる。こんなのでも大学を卒業できるってのは大学の存在理由を教えてくれって感じ。オラが残念な大卒を「学士ではなくガックシだ」と言ってるのは残念な大卒が多いからだ。少なくとも卒業論文は書いていると思うのだが、そいつらWikipediaから丸パクリで卒業しているのかも知れないね。

 日常的に「これが大人の書くメール文かよ」って感じのヤツを見ることもある。こんな馬鹿が高給取りとか馬鹿らしくなる。つまりだ。社会人としての最低ラインって最終学歴うんぬんじゃないんだよね。短く分かりやすく理路整然とした文章を生み出すスキルを必要と思わないから覚えられないんだよ。普段から研鑽もしないから上達もしない。

 オラが基礎的な身体能力を鍛えているのは文章力と同じ理由だ。いつ何処で必要となるか分からないから。むしろ予想外のことで死にたくないなら必要な知識や身体能力は常に鍛えるべきだ。当然、文章力、身体能力だけでは死ぬ。この世の理(ことわり)は理科にあり、その上の科学や物理学にある。趣味が多いと相互の関連性ってのを理解する。特定の知識やスキルだけではできないことなど山ほどある。識らないことは上手く説明できないからだ。

 人間ってのは必要に応じて必要な知識を得るものだけど、この義務教育しかり、高校の授業料無償化しかり、基本的な勉強するだけなら生きるための養育費は必要でも授業料はほぼ掛からない。馬鹿が馬鹿に甘んじているというのは今後の人生を放棄しているとも言える。

 このような状況でもまだ勉強が不要だと思ってる人間が居るのだろうか。貴重な人生の有限な時間をクソも下らない汚物垂れ流しのTVなんてもので消費している時点でかなりの人間が人生を間違っていると思うけどね。

 でも、勉強ってのは別に学校で習うものだけを言うのではない。オラだって学校の成績は中とか中の上くらいだ。別に特別頭が良い訳では無い。むしろ今のオラを作り出したのは社会人になってからの経験上の産物。知っての通り、一般人が手を出さないものの先駆者であることを選ぶ天邪鬼で捻くれ者である。何が当たるか分からなくても自分が必要だと思ったものが多く当たってるに過ぎず、中には何時使うんだよって知識も五万とある。でもそれを無駄だと思わないし、肥やしであるのには違いない。

 社会人に算数は必須でも数学は必要無いな。歴史も過去のことだからあまり拘らない人も多い。それに歴史が必ずしも正しいものでもあるまい。過去は過去。今は今。そうだったと想像することはできても、断定できるものは出土品として残ったものに限られるからだ。再現とてそれは想像に過ぎない。数学は世の中で何か役立つシーンが有るとも思えない。歴史は外国人とのコミュニケーションには必要らしいが、全員が過去の歴史問題でイチャモン付けるわけではない。むしろ捏造しまくってる中韓くらいのものだ。

 複雑怪奇な計算とて結局はそれを解くのに使うのは四則計算の繰り返しだ。つまり、数式とか公式とかあるけど、もしも仕事で必要になったら、Excelのシートに複雑怪奇な関数をぶっ込めば自動計算はできる。要するに生活で必要となる計算は解き方が分かってさえいれば支障はない。ただ、あまりに幼稚だと友達に見限られるというだけ。

 確かに数式や公式ってのは分かっているとより便利でもある。でも、代替手段があるなら別に無くても困らないことのほうが多い。感覚的にそれを理解して、概ね正しい答えに近いものが得られれば、それで良い。要するに他人にそれを上手く伝えられれば些細なこと。

 現行のパソコンが決まり切った計算を人間よりも早く解けるのは当たり前。でも、量子コンピューターが目指しているものは物凄く高速な人間の脳のような結果を得るもの。いま話題のAIによるCGの生成だって、人間の脳は空想や想像という産物を脳内に一瞬で描いてしまえるほど具体的で速い。人間の脳内にあるイメージを物理的に他人が認識できる形でアウトプットできないというだけ。頭の良さも別に勉強ができるとか出来ないとかその基準で測れるものではない。障害者の中に超絶天才が居るのもそういった脳の使い方の違いでしか無い。

 オラが視覚情報から物理現象を感覚的に計算できるけど、数学は大嫌いである。実際の現象を眼で観て、ここでこういう動きをするのかと分かれば、知りたい結果を周りの状況にあてはめて想像(シミュレーション)するだけ。流体力学とかは津波の進行方向と反射(地形効果)と抵抗(障害物)を平面でシミュレーションするために脳内に作ったスクリプトだ。災害時に流体力学のシミュレーターを使い再現するシーンはあるけど、それは視聴者に分かりやすくする手段であって、パッと見れば分かる人などかなり居ると思う。イメージを脳内に描き出して時間経過でどう変化するか。最終的にどのようになるかがイメージとしてリアルに想像できる。津波なんてものは逃げる場所と方向。盾にする障害物との位置関係を間違えば容易に飲まれる。意外と簡単な身の回りにある現象を大袈裟にしたものってイメージ。子供の頃に土を掘り返してバケツで水を流してダムごっこした人ならこのスクリプトは誰でも持ってる。

 タイトルに立ち戻って考えると、文字が読めないというのは、活字の情報をイメージできないことであり、それによって正しく情報を脳に格納できない。それらは空想や想像というものを生み出す栄養なようなもので、情報を取り込む障害になる。勿論、文章を書けないというのも致命的であり、自分の説明したいことを他人に正しく理解してもらえる機会を失なうことにもなる。実に損をしていると言える。人に言いたいことを上手く伝えられないというのは人の書いたものを上手く取り込んだり理解できないことであり、前提としては学校うんぬんではなく、普段から自堕落を繰り返している結果。どうせ自分は駄目なんだとか思って、実行する機会をその都度自分から放棄し続けた怠け者だ。

 会話で倒置法を繰り返して支離滅裂になる人は少なくない。それは学力がないというよりも単純に「人に上手く短い表現で順を追って説明する」という思考ができず、脳に浮かんだ単語をスピーカーのように垂れ流しているので、声として発する前に脳内で単語のパーツをパズルのように推敲すれば良いのにそれをしない人だ。性格的な欠陥なので、本人は自分が正しい日本語で言っているつもりでも、聞いている人は主語も述語も本題さえ抜けているバラバラの言葉を脳内で必死に意図を汲み取ろうとするも、文脈が次から次へと破綻しているので「何を言いたいのか」が聞いている方には伝わらない。

 これを短く表見するとすれば、「学力や学歴のせいにして逃げる続けるのは楽だよね。機会は何時でも沢山あったのに」ってこと。

 必要としないと考えれば不要となるだけ。これは使わないものから衰える人体機能や能力の低下と同じで、必要と感じなければ行なわない。それによって生理的にそれは不要となり機能が低下。結果としてその機能は失われたり向上の機会を失い取り戻せなくなる。結果として脳も身体も老化して、早くボケて早く不能になって早く死ぬだけ。

 でも、才能ってのはギフトでもあるので、それで食っていけるのであれば別にそれらも必要じゃないとも言える。だって、使い所は違っても、他者を圧倒するスキルがある人はそれだけで活性化しているから、そこをどんどん伸ばして生きていけば良い。

 ただ、毎日をダラダラと過ごしていれば、生きる意味を活力を失うのも早いでしょ。本来は動物には有り得ない自殺なんてものは、最後の最後まで足掻くってことをやめているのだから。この人類の生活スタイルもまた、過去の型に嵌まったもので、現代にはそぐわないのかもね。教育が必要かどうかなんて本当は分からない。だけど、出来ることが多い人ほど、もっともっと多くのことに挑戦する準備ができているということは言える。

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