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2024年3月2日土曜日

房総半島がきな臭くなってきたようですが、「その時どうする?」は決めてるのか。

 ◯月◯日の◯時◯分頃に地震があるから震源から離れてね~みたいな予報は無い訳で。

天気予報ほどの精度があったとしても、それも確率の話であって確実性はない。

そんな地震予報が毎日報じられていたとしても、毎日聞いてたらそのうち無視してしまうのが人間という生物だからね。そもそも地面の下の亀裂やプレートの歪み、圧力の分布をレントゲンのように見られる技術は未来にはあるのかもしれないけど今はない。せいぜい衝撃を発して反射されてくる音波から知りうる情報を地震の予知に使えるほど現代科学は熟していない。

自分の身を守るのは自分自身の考えと行動と生物としての個の強さであって、何もかもをメディアに登場する専門家や政府。自治体に頼りきっている時すでに遅し。

あの時、こうしていれば・・・なんてタラレバを垂れ流してもしょうが無い。

その日、その時、その場なんてものは可能性の問題であって確定できる要素など無い。先送りにしては対処ができなくなるし、家族単位で自分の済んでいる場所の位置。周囲の地形。家屋の経年と強度。事前に何を準備しておくかまで話し合わないと、その後の人生はタラレバばかり口にすることになる。

決めるのは自分または家族単位であって、対策を他人任せにするのは不幸を呼び寄せるだけ。また、仮に運悪く絶望的な状態で被災してしまった時にどういった行動が可能なのかも考えて準備しておく必要がある。

ひとつは無我夢中で外に出るべきか留まるべきか。ひとつは被災直後の衣食住の問題。ひとつは押しつぶされた家屋の中に居る時にでできること。ひとつは直ちに津波影響下から離れる避難路のこと。或いは裏山が地滑りを起こす可能性があれば、直ちに影響範囲外に退避すること。

財産は失っても命があれば生きていかなければならない。当面の心配を今からどう減らしていくかということもある。うちはそんな余裕はないと何もしなければ、もっと深刻に余裕がなくなる。メンタルもそうだ。いつも綺麗なトイレで優雅に用足ししている人は仮設トイレの汚さ、不快さに耐えられるか。仕切りもろくに無いプライベートも無い避難所生活で神経をやられるかもしれない。その場になってみないと気づかない自分があるかもしれない。

遊びの予行演習は意味がない。その場になってみないことには気づかないこともある。一番の悪はやたらと神経質になっている事だと思う。気になりだすと次から次へと不満が爆発すると思う。現代人には不衛生は耐えられないと思うし、そんな事を言っていられないのは分かっていても受け入れられなければ先に気が狂うと思う。

親からも奇人変人扱いされているオラくらいに成れとは言わんけど、オラくらいに成ればある意味で無敵とも言える。大災害では普通の人ほど弱いものはない。不衛生な状態になれば集団食中毒にもなろうし、冬なら風邪をひくものも出るだろう。暖房に頼り切った現代人では「0度で無風なら寒くはない」というオラの感覚もわからないだろうしなぁ。

被災しても自分の生活が今まで通りなわけ無い。不便に慣れるってのは、必要最小限の生命維持であって、病気になってる場合じゃないというのも分かるでしょ?。そういう部分が楽な方へ楽な方へと逃げ続けた結果、人間という生物が急な生活環境への順応性を衰えさせていく原因だし、怠惰に慣れると筋力も落ちて自分のことを自分でできなくなる。

自ら望んで弱体化する動物なんて居ない。居るとしたら人間だけだ。

集団として強い人間は個々じゃ個体差が大きすぎて、人間は生物的に強いか?と聞かれれば、文明レベルの低い人間ほど個としては強いと答える。

便利なものが使えなくなったら、それ無しで長期間を生きられるか?。それは今の自分にあてはまるものを列挙して、チェックしてみれば良い。これだけは無いと生きられない物があるとしたら、用意すべきなのはそれだ。

でも、その災害の発生時に生き残れないような弱者は、その災害の発生とともに死んでしまうリスクは高いんだよね。

無ければ不便を今から減らそう。寒くても我慢しよう。暑ければ涼しくなる工夫を覚えよう。無用な羞恥心は捨ててしまえ。無いよりマシと思おう。自然から食べ物を自力で入手する術を学ぼう。そして、自分を鍛えよう。

やってて良かったと思えるのは、当事者になってからだと思うが。

大半の人間は当事者になるまで他人事なんだよね。そこが人間の一番駄目なところ。

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